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9.11の衝撃:イスラエルとパレスチナ


2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロは世界中を震撼させた。このテロによって3000人近い犠牲者を出したアメリカのブッシュ政権は、さっそくヒステリックな反応を示した。テロとの戦いへの邁進である。ブッシュはまずアフガニスタンを攻撃し、ついでイラクを攻撃してフセインを殺した。こうしたアメリカのテロとの戦いに対して、世界は反対する理屈を持たなかった。逆にそれを正当化するような論調が支配した。そしてテロとの戦いは、テロリスト=イスラム教徒という図式を通じて、イスラムとの戦いへと転化していった。イスラム=悪という構図が成立したのである。

その構図をもっとも有効に利用したのは、イスラエル首相シャロンである。シャロンはインティファーダに立ちあがったパレスチナ人をテロリスト呼ばわりし、彼らへの攻撃を正当化した。シャロンはその攻撃をパレスチナ人全体への攻撃に発展させていった。パレスチナ人を代表する自治政府の首班アラファト迄テロリスト呼ばわりし、事実上軟禁する始末だった。そうしたシャロンの行動を、アメリカのブッシュ政権は見逃した。自分自身テロとの戦いをスローガンに掲げながら、シャロンにそれをやめさせる理屈が見つからなかったからだ。

シャロンはまず10月2日にガザに侵攻した。ついで10月19日には西岸の各都市に攻撃をかけた。それに先立って17日にイスラエルの閣僚が暗殺される事件が起きており、それへの報復という名目もあった。イスラエルはこの暗殺責任者の逮捕をアラファトに要求したが、アラファトにその能力がないと見極めるや、軍をアラファトが政庁を置くラマラまで進行させ、事実上アラファトを軟禁状態にした(2002年3月)。これにはさすがにブッシュも驚き、シャロンにイスラエル軍の撤退を要請したほどだった。しかしシャロンはただちに軍を撤退させることはしなかった。

2002年になると、対立はそれまでとは異なった様相を呈するようになった。イスラエル軍による一方的な攻撃から、パレスチナ人による自爆攻撃へと移って行ったのである。この自爆攻撃は防ぎようがなかった。特に、1月27日に起きたパレスチナ人女性による自爆攻撃は衝撃を与えた。女性が自爆攻撃に参加するのははじめてだったからだ。これはパレスチナ人の絶望が深刻化していることのあらわれと受け止められた。

パレスチナ人の自爆攻撃からユダヤ人を守るという名目で、2月の下旬からいわゆる分離壁が設置された。この分離壁は8メートルの高さで、数百キロにわたるものだった。この壁は、占領地のグリーンラインよりもパレスチナ側に深く食い込んでおり、パレスチナ人居住区を分断するものだった。2013年公開のパレスチナ映画「オマールの壁」は、この分離壁によって分断されたパレスチナ人社会の怒りをテーマにしている。

イスラエル軍の攻撃は次第にエスカレートしていった。3月5日にガザを、8日にはベツレヘムを制圧し、死者の数は膨大なものになった。ちなみに、2001年9月以降、2002年3月までの死者は、AP通信によれば、パレスチナ人1368人、イスラエル人433人だった。これにはジェニンの虐殺による死者は含まれていない。

ジェニンの虐殺は、イスラエルの「テロとの戦争」のおける最も醜悪な事件だった。ジェニンには1万3000人のパレスチナ人が住んでいたが、イスラエル軍は4月6日にヘリによる無差別攻撃を開始し、ついで難民キャンプを完全封鎖して殺戮の限りを尽くした。殺害された難民は500人以上にのぼるといわれる。それにはシャロンの「相手が悪かった、許してくれというまで叩きのめせ」という言葉が火をつけた。シャロンはだから、戦争犯罪人と呼ばれる十分な資格がある。

こうしたシャロンのやり方について、国際社会の批判が高まった。アナン国連事務総長は激しい言葉でイスラエルを非難した。またアラブ連盟首脳会議は、ベイルート宣言を採択し、イスラエルの1967以降の占領地からの撤退、パレスチナ難民問題の公正な解決、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家の樹立などを盛り込んだ。更に3月30日には、国連安保理がイスラエルの撤退を求める決議を採択した。

この一連の事態は、アメリカのテロとの戦いに便乗したシャロンが仕掛けたものといってよい。イスラエルはパレスチナ人による手痛い反撃も受けたが、基本的には非対照的な相手に対する一方的な攻撃だったといってよい。その攻撃をジェノサイドに譬える見方も現われた。イスラエル国内でも、シャロンのやり方をヒトラーのホロコーストに譬える見方が現れた。アロニ元教育相は次のように言ったものだ。「イスラエル政府は、今パレスチナ人を強制収容所に類似した状況においている。私たちはかれらがガス死させられるまで抗議の時期を待たなければならないのだろうか」(広河隆一「パレスチナ」から引用)



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