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パレスチナ問題と日本


中東は日本から距離が遠いので、地政学的な条件から外交上大きな意義を占めることはなかった。特に戦後においては、日本はアメリカの属国のような立場になり、独自外交を展開する余地はあまりなくなった。日本の戦後外交は、基本的にはアメリカの外交政策に乗ったものにならざるを得なかった。それを踏まえたうえで、国連の政策と歩調をあわせるというのが日本外交の基本的な方向性だったということができる。

イスラエルとの関係においては、1952年4月に日本が独立を回復した一か月後に国家として承認している。その後、1954年にはテルアビブに公使館を開設し、1963年には大使館に格上げした。一方アラブ諸国との関係も重視したが、これは日本がアラブ地域に石油のほとんどを依存しているという事情を踏まえたものであった。

こんな具合に日本の中東政策は、アメリカとの関係においてはイスラエルを重視する一方、石油資源の確保という外交目標にそってアラブ諸国との友好を重視するという形をとってきた。そのスタンスはいまでも基本的にかわらないといえる。ただ、アメリカがイスラエル寄りの立場を強めるたびに、日本もまたそれへの追従を迫られてきた。あまりに追従しすぎると、アラブ諸国の反発を招き、石油の確保に影響を及ぼしかねないので、日本としては苦しい立場に陥りかねないわけである。

実際日本は、手痛い経験をしている。第四次中東戦争の際に、アラブ諸国はイスラエル寄りと判断した国々に石油の輸出を停止するという政策をとった。いわゆるオイルショックである。これによって日本は大きな打撃を受けた。これをきっかけにして、エネルギー政策の見直しとか、産業構造の転換といった事態が進んだが、外交的には、アラブ諸国との友好関係を重視する立場を強めたといえる。日本はそれ以降、イスラエルとの友好関係は続けながら、アラブ諸国との関係を一層重視するという政策をとった。いわば、アメリカとアラブとの二方面外交を追求したと言ってよい。

日本の対パレスチナ外交は、1977年に画期を迎える。この年PLO東京事務所が開設され、日本とパレスチナとの間で外交関係が成立した。その後、1995年にパレスチナが国連のオブザーバー国家として承認されると、日本はパレスチナを国家として承認したわけではないが、パレスチナ自治政府をパレスチナを代表する機関として扱うようになった。そのことを踏まえて、パレスチナへの経済援助もするようになった。

これはアメリカとアラブとの板挟みにある日本の立場をよく物語っている。パレスチナを国家として承認するとアメリカの怒りを招き、逆にパレスチナを無視すると、イスラエル寄りだとしてアラブ諸国の反発を招く。それを恐れた苦肉の策という性格が強い。

パレスチナ問題に関する現在の日本の立場は、イスラエルとパレスチナの平和共存を後押しするというものであり、具体的には二国家併存を支持するという考えだ。これは基本的には国連の政策に沿ったものと言ってよい。こと中東問題に関しては、日本はアメリカの言いなりになるわけにはいかず、かといってアラブに味方するでもなく、その間をとって、基本的には国連の国際協調政策に従うというスタンスをとっているのである。それならば、アメリカも納得してくれるのではないかと、考えるからだろう。

だが、トランプ政権が登場して、アメリカが露骨にイスラエルの味方をするようになると、日本の中東政策にも大きな影響を及ぼすようになった。だが日本はトランプの言いなりになるわけにはいかないだろう。トランプの言いなりになって、イスラエルに一方的に肩入れするようなことは日本の安全保障上非常に危険である。トランプのイスラエル贔屓には特別の事情があると割り切って、やり過ごすくらいの気持ちが必要である。

今のところ日本は、アメリカの対イラン強硬戦略に対して、是々非々の態度をとっている。たとえば、ペルシャ湾の安全を守るという名目でアメリカが呼びかけた有志連合には、直接参加しないまでも、日本独自の観点から自衛隊を派遣するといったやり方である。こうしたやり方を通じて、アメリカの意向を尊重すると見せかけて、アラブ諸国あるいはイランを刺激しないという意図を貫いているわけである。

こうした二方面外交というべきものは、日本がアメリカに従属しているかぎり、続けていかざるを得ないだろう。安倍政権になって日本の対米従属は一層進んだといってよいが、それでも日本はアラブ諸国との良好な関係を犠牲にしてまでも、アメリカの言いなりになるわけにはいかないのである。



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2020
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