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荻生徂徠と福沢諭吉:丸山真男と加藤周一の対話「翻訳と日本の近代」


丸山真男と加藤周一の対話「翻訳と日本の近代」(岩波新書)を読んだ。これは、日本の近代化を支えた翻訳というものについての対話形式による省察だ。何を、どのような人がどのように訳したか、また日本では何故翻訳が巨大な役割を果たし、その影響も広くかつ深かったのか、ということについて、主に加藤が問題を投げかけ、丸山が応えるという形で進んでいく。その過程で、興味あるワキ話も出てきて、むしろ本題よりも面白かったりする。知的刺激に富んだ面白い対話だ。

ワキ話のなかで最も精彩を放っているのは、荻生徂徠と福沢諭吉の評価をめぐるものだ。この二人は、丸山が情熱をかけて研究した思想家だから、よほど思い入れがあるのだろう、話が流れていくうえで、様々な形で言及される。というのも、この二人の思想は、日本の伝統的な思想とはかなり異なっていて、非常にプラグマティックなところがある。そういうところが、翻訳の精神と触れ合うところがある。翻訳もまた大筋においてはプラグマティックな関心に支えられたものだからだ。

荻生徂徠と福沢諭吉は非常に似ている、と丸山はいう。二人とも比較の視点を意識的に適用することで、物事を相対的に見る。ということは、対象にのめり込んでしまうのではなく、それから一歩身を引いたところから、対象を客観的に見ることへとつながっていく。そこのところが、時代を隔てていながら、二人に共通したところだ、というのである。

たとえば荻生徂徠は、中國の古典は外国語で書かれたものだという、ある意味当然のことをいった。その時代の儒者たちは、中国の古典をあたかも日本古来の文献のように扱い、したがって日本人のものの見方をそのままあてはめて、中国の古典を解釈していた。しかしそれはおかしい。中国の古典は中國という外国の文献なのだから、そこに書かれていることは、中国人のものの見方を反映している。それを、日本人のものの見方で解釈しようとすると、自ずから誤解が生まれる。

このように徂徠は、対象をそれ固有の背景との相互関係から見るという、相対主義的な見方をもっていた。その上で、中国人のものの見方を日本人のものの見方と関連付けながら見て行けば、日本人は中国人よりももっと深く物事を見ることができるかもしれない。そんなことを主張していた。

この主張は、福沢の一身二生の思想とよく似ていると丸山は言う。西洋人は西洋人の立場からしか物事を見られないが、日本人は日本人としての見方と西洋人の見方との両方からものごとを見ることが出来る。それは日本人が西洋人よりも有利だということだ、という主張である。つまり両者ともに、日本の文化を外国の文化との相対的な関係において見ようとする姿勢がある。それは伝統的な日本の主流の思想からは期待できないことだ、というのである。

荻生徂徠の相対主義的な立場が現実化した例として、丸山は忠臣蔵問題をあげる。大石らの敵討ちについて、当時、天下の法を犯したのだから罪人として処刑すべきだという議論と、主君の仇を討ったのは武士として立派な行為だから却って賞賛すべきだとする議論が対立していたが、徂徠は、前者の立場を支持した。そのわけは、物事には公使の区別がある。法は公、仇討は私である。大石らの行為は法つまり公の立場からは許されないものであり、そこに私情を挟むのは公私を混同するものであるといった。日本人の悪いところは、公私を混同して、公的に処理すべきところに私情を差し挟もうとするところだと痛烈に批判した。

といって徂徠は、私を軽視したわけではない。公にはその領域があるように、私にも領域がある。たとえば文学などは、徂徠にとっては私の領域のことである。私の領域のことは、それはそれで尊重されなければならない。許されないのは私と公とを混同することなのだ。だから、文学に勧善懲悪を持ち込むのはナンセンスだということになる。かように徂徠は、なかなか近代的な考え方をしていたのである。

徂徠の公私にあたることは、福沢においては物理と道理の区別である。物理とはものごとの客観的な法則であるのに対し、道理とはものごとのあるべき姿である。一方は事実にかかわり、一方は当為にかかわる。事実と当為とは、公と私とが領域を異にするように、やはり異なった領域を持っている。両者は混同してはならぬのだ。ところが現実の学問や政治においては、この両者が混同されている。朱子学などはその典型で、自然の秩序は事実であるより前にかくあらねばならぬ要請として意識される。そんなことでは物事を正しくつかむことはできぬ、そういって福沢は儒者を憎んだわけである。

公私の別と言い、物理と道理の区別と言い、要するに物事を相対的に見る視点が重要だということだ。そうした視点に立って初めて、ものごとを客観的に見る態度が生まれてくる。

ところで本居宣長といえば、荻生徂徠流の合理主義とはもっとも縁遠い思想家と見られがちだが、どっこい、宣長は徂徠から大きな影響を受けている、と丸山は言う。宣長にはうそつきなところがあるから、それを隠しているのだというのである。どんな影響を受けたかといえば、宣長は日本の古典を読むときには唐心を排せよといった。これは中國の古典を読むときには大和心を持ち込むなといった徂徠の主張を丁度裏返しにしたものだ。裏返しなりに、徂徠の説を宣長なりに採用しているわけである。

ところが不可解なのは、と丸山は言う。宣長はあれほど唐心を排せよと力説したにかかわらず、和歌の評価においては、万葉よりも古今、新古今を尊重した。新古今と言えば、ずっと後世のもので、唐心に汚染されたものといってよい。それを宣長は、一方では古典の解釈には唐心を排せよといいつつ、他方では唐心に汚染された歌をもっともすぐれた日本の歌としてたたえる。これは矛盾そのものではないか。そう丸山は宣長を論難するのである。その宣長を論じたものに小林秀雄がいるが、小林はこのもっとも肝心なことに一切言及しないでいる、といって非難の矛先を小林英雄にも向けている。

というわけで、この対談は知的な興味をそそってやまない。


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