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藩翰譜:新井白石を読む


「藩翰譜」は、甲府城主だった頃の徳川綱豊(後の家宣)に仕えていた白石が、綱豊の命を受けて書いたものである。その成立経緯は「折たく柴の記」に詳しい。それによると、元禄十三年(1700)に、俸禄一万石以上の人々のことを調査して書き記せとの命を綱豊から受け、約一年間の下準備をしたうえで、翌年七月十一日に起稿し、十月に至って脱稿したということになっている。内容は、慶長五年(1600)から延宝八年(1680)に至る間の大名三百三十七名について、その事績を記したものである。

次代の将軍を嘱目されていた綱豊のことであるから、その関心の焦点は、諸大名の人柄とか徳川家への忠誠度といったところにあったものと思われる。これから将軍位に就こうとする自覚を持った人間として、諸大名のことを理解しておくのは必須のことだったに違いないからだ。白石もそのことを十分頭にいれながら、与えられた使命を果たそうとしただろう。かれの筆致がことさら冴えている部分は、大名たちの将軍家への忠誠度に触れたところにあることからも、それは窺える。

ここでは、何人かについてのエピソードをとりあげながら、白石がこの書を通じて何を強調しようとしたか、について見てみたいと思う。

まずは本多忠勝。忠勝は家康の懐刀として、その信頼厚く、また信頼に応えるべく奮闘した。家康の家臣団のなかでは、武闘派の頭目というべき人だ。かれの生涯の戦いぶりを白石は「忠勝十七歳の時初て軍し、大小の戦ひ五十七度、終に一度の不覚なし。又終に一所の手も負はず」と記して称賛している。

そんな忠勝をたたえた歌が流行ったものらしく、白石はその歌の文句迄引用している。曰く、「家康に過ぎたる物は二つあり、からのかしらに本多平八」。平八とは本多忠勝の幼名平八郎をいったものである。本多平八郎といえば、徳川時代を通じて、日本男児の理想とされたものだが、その理想像は忠勝のように、恐れを知らず戦い、しかも忠義に厚いということを意味していた。そうした理想像を、白石も又共有していたようである。

次は本多重次。重次の家系は遠い昔に忠勝の家系から別れたようである。徳川家譜代の家臣だった。武将としての勇敢さも際立っていたようだが、白石が重次について強調しているのは、かれの忠誠心である。その忠誠心は諌言を躊躇しないところに現われている。家康が背中に腫瘍ができて、あやうい様態に陥った時に、重次はかつて自分が受けた治療法を家康に勧めた所、家康はこれも寿命だからといってとりあわなかった。すると重次は、殿のお後に従うには時間が許さんだろうから、御先に参ると言って家康を諫めた。家康はその心意気に感じて治療を受け、一命をとりとめたというのである。

本多重次が忠誠心で際立っていたとするなら、板倉勝重は、決断の慎重さに秀でていたとされる。家康が重次を重役につけようとしたところ、重次は妻に相談させてほしいと言った。家康は、面白いことを言う奴だと思いながらも、猶予を与えてやった。重次は家に帰ると妻に相談した。相談された妻は驚いて、そんなことを妻に相談するものではありませんと答えたが、重役についた男が躓くことの背後には必ず女の影があるといって、妻の覚悟を求めた。果たして妻の覚悟を得た勝重は、その後重役を全うしたばかりか、永い期間にわたってすぐれた政治を施し、民の信頼も集めた。やはり、物事を進めるにあたっては、慎重に処さねばならぬ、その教訓を板倉勝重は示してくれたというわけである。

森川重俊は、将軍秀忠が死んだときに殉死したのであったが、その殉死をめぐってはいろいろな憶測がいきかった。重俊は次代将軍には国松がつくべきと考え、竹千代(後の家光)をないがしろにしていたのだが、その竹千代が将軍になることとなって、報復をおそれて殉死を装ったのであろうとか、また、かつて自分の甥が殉死すべきところをしなかったことで大いに怒ったことがあったために、自分が殉死しないでは格好がつかないと思ったのであろうとか、いったものである。こうした記述からうかがわれるのは、かつては当然とされていた殉死が、白石の時代には形骸化していたということのようである。

柳生宗規は兵法で知られた人物だが、意外にも禅に傾倒し、自分の兵法は禅の賜物だと言ったことがあった。白石は、宗規の禅に向かう姿勢をさらりとした筆致で描いている。徳川時代の始めころまでは、宮本武蔵を始め、剣術に禅の境地を生かす人が多かったが、白石の時代にはそうした人はほとんど見られなくなったと見え、宗規の禅への傾倒について強調しておきたかったものと見える。

浅野長政は、秀吉の相婿として知られる。妻同士が姉妹だったのだ。そんなことから秀吉には重用されたが、秀吉死後も家康から高く評価された。それには、秀吉の妹が家康に輿入れするさいに、長政が付き従ったことも働いたのだろう。だがそれ以上に、長政の率直で剛胆な生き方が、家康の気に入ったということのようだ。長政には、主君の秀吉をこっぴどく説教したということがあって、それを家康が評価したのだろうと思われる。

長政は秀吉の朝鮮出兵を批判して、「一定ふる狐の入かはったるには候はずや。賤しき者の諺に、人とらんとする亀は必ず人に取らるるとは、此事にて候そ」と言った。それに対して秀吉は激怒したが、なぜか長政を罰することはしなかった。長政の才を惜しんでいたからだと思われる。その長政の才を、家康も評価したということなのだろう。なお、白石もかかわった忠臣蔵騒ぎの主人公浅野長矩は、長政の子孫である。

徳川忠長は秀忠の次男で、父親から深く愛されたことで、次の将軍との期待も高かった。結果的には長男の家光が将軍となるわけで、その陰には色々な動きがあったということにされているが、忠長自身にも問題があって、かれは将軍になるべき器ではなかったのだ、という意味のことを白石は強調している。徳川家の将軍継嗣のあり方を、正当化しようとの思惑から出たものとも思われる。

本多正信の家系は代々徳川家の家老をつとめていた。正信も家康の家老として、深い信頼を寄せられた。「大御所、正信を見給ふこと朋友のごとし」と白石は書いている。正信が家康の深い信頼を得た事柄として、明智光秀が信長の首をとった事件の後始末があげられる。その時家康は宇治のあたりにいて、このままでは明智にほろぼされるから、その前に自決しようと決意したが、正信の計らいで敵陣を潜り抜け、無事三河に帰ることができた。それが機縁となって、家康の正信への信頼はより深まったというのである。

その正信は、欲に淡白な人で、子孫に過大な財産を残すのは災いのもとだと思っていた。そこで死ぬに当たり、「正信が奉公の労を忘れ給はで、長く子孫の絶えざらん事を思召さば、嫡男上野介が所領、今の儘にてこそ候べけれ。必余多賜ふべからず」と願い出た。ところが幕府では、その後嫡男の所領を増やしたので、家は絶えてしまったのである。

以上の例から垣間見えるのは、それぞれの人たちの、人間としての生きざまである。そうした生きざまのうちで白石がとくに称揚しているのは、武士のメンツにこだわり、公のために粉骨する人々の生きざまだったと言えそうである。そのところに、古武士の精神をまだ忘れていなかった白石の心意気のようなものを感じることができよう。




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