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加藤周一の新井白石論


岩波版日本思想体系新井白石編に、加藤周一が「新井白石の世界」と題する結構長文の解説を寄せている。バランスのとれた解説なので、とりあえず新井白石という人物のプロフィールを知るには適当な文章だと思う。

加藤は白石を日本の思想史上の巨人と評価し、白石に匹敵する者は、おそらく空海くらいだろうと言っている。そしてこの二人に道元を加えた三人を、日本が生んだ最も偉大な思想家と見ている。

この三人に共通するのは、視野の広さである。その視野の広さは、海外への目配りから来ている。かれらには国境を超えた自由自在な思想の羽ばたきが認められる一方、真理概念の超越性も理解していた。とかく日本という島国の殻に閉じこもり、日本人にしか通用しないような理屈を弄んで来た大方の思想家とはスケールが違うというわけである。かれらにとって真理とは、ひとえに日本人のみならず、あらゆる民族に共通のものでなければならなかった。

新井白石の視野の広さは、かれが幕府の高級官僚として、外国人との接触の機会が多かったことで養われたようである。朝鮮からの使節団と面談して、日本を相対的に見る視点を養ったり、また、イタリア人宣教師シドッティを尋問することで、ヨーロッパ人の考え方を日本人と比較しながら検討したりした。その場合の白石のやり方は、日本を絶対視するのではなく、他の国と比較しながら、相対的に見るというものだった。

新井白石は当時の日本人としては例外的に中国文化への理解が深かった。かれは中国人にも劣らぬほど立派な漢詩を作ることができた。これをかれは独学で学んだと言っているが、そうした姿勢が、かれの視野の広さにつながっていったのだろう。

新井白石の視野の広さは、かれの研究分野が多岐にわたっていることにもあらわれている。かれは歴史、とくに日本の古代史や言語学、地誌などの分野で活発な研究を見せた。その場合のかれの研究姿勢は実証性を重んじるというものだった。かれにとって実証的であるとは、事実を重んじることだった。「実に拠て事を記」すことが学問の鉄則だった。だから事実に裏付けられない説は信用しなかった。そんな白石を加藤は、日本で最初の本格的な実証主義的思想家と捉えている。

新井白石の実証主義は、たとえば歴史研究の分野で存分に発揮された。水戸学派の大日本史が、神話と歴史を混同していることを批判し、あくまでも事実をもとに歴史を語るという態度を徹底した。そのためにかれは、日本書紀など天皇制を合理化するために書かれた書物よりも古事記のような素朴な記述を重んじ、また、魏志倭人伝など支那の文献を、外国から見た日本の状態を記述したものだとして重んじた。

白石は、文書の信頼性を、それが事実と合致しているかどうかに求めたが、文書によっては必ずしも事実の裏付けがとれるわけではない。その場合には、個々の命題相互の間に論理的な整合性があるかどうかに着目した。命題相互の間に整合性がないような文書は信ずるに値しないというのがかれの主張だった。それを加藤は、白石が日本人としてはめずらしく、命題論理、つまり形式論理に拘った人だったと見ている。かれの実証性を重んじる姿勢は、合理性を重んじる態度と連関しあっていたのである。

白石は、学問の方法として実証主義と合理主義に徹した一方、世界を見る視点としては朱子学的な合理的世界観を信奉していた。朱子学は、儒教の政治倫理学と易の形而上学を結びつけて成立したものだが、白石は特に易に凝ったというのが加藤の見立てである。易は、現代人の目から見れば迷信のように映るが、白石は本気でこれを信じていたという。もっとも、事実と矛盾するような場合にまでは信じなかったらしいが、そうでなければ、易の概念を用いて歴史や未来を語ろうとした。晩年の白石は、婚期の遅れた娘の幸福を占うために筮竹をとったというエピソードを紹介して、白石がいかに易に頼っていたかについて、加藤は語っている。

以上のように、白石は実証主義的方法と朱子学的世界観を以ておのれの学問を体系的に展開した一方、行政官としてもそうした姿勢を貫いた、というのが加藤の評価である。白石の行政官としての功績のなかで加藤がもっとも注目しているのは財政政策である。白石が、荻原重秀のインフレ政策を厳しく批判し、物価の安定と支出の削減による財政の均衡を図ろうとしたことはよく知られている。今日から見れば、白石のデフレ政策は、膨張しつつあった当時の日本の経済の実体と齟齬をきたしており、荻原のインフレ政策の方が、時代の状況とよくマッチしていたという見方のほうが有力だが、加藤は加藤なりに、白石のデフレ政策を評価している。

行政官としての新井白石の活動のうち、加藤が次に注目しているのは訴訟事件への白石の対応である。訴訟事件についての白石の意見の内容には、明らかに特定の傾向がみられると加藤は言う。「権力と人民との関係については、ほとんど常に、権力の濫用を警め、人民を罪するのに慎重でなければならないとする」姿勢をとっていたというのである。その姿勢はまた、事実にもとづいて訴訟事件を判断しようとする態度と結びついていた。事実を徹底的にあきらかにし、そのうえで、慎重に結論を出す、というのが白石の基本的な態度だったというわけである。

そうした白石の態度は、儒教のいわゆる仁政と無縁ではなかっただろうと加藤は見ている。そういう意味では、白石は保守的な人間だったということができるが、それは白石が武士の一員として、武士の立場からこの日本をうまく治めようとしたことに根差している、と加藤は見ているのである。それゆえ加藤は、白石について次のように言うのだ。

「この民族主義者は、同時代におけるもっとも開放的な精神の持主であり、この政治的な保守主義者は、学問における極めて大胆な改革者であった。あるいはむしろ十八世紀初の日本では、政治的な保守主義者でなければ、日本の歴史と社会に関する学問を真に学問たらしめることはできなかったのかもしれない」


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