知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




世界の共同主観的存在構造:廣松渉の認識論


廣松渉といえば、ユニークなマルクス主義者として、1960年代前後の日本の新左翼的言説の中心にいた人物として評価されるのが普通だが、彼にはもうひとつ、哲学者としての顔があった。というのも、かれは東大の哲学教授であったわけだし、そのような立場から、日本の哲学界の歴史的な傾向に掉さすようなかたちで、哲学的な思考を展開してもいたわけである。

日本の哲学界の歴史的な傾向と言ったが、なにも日本の哲学界が、世界に誇れるようなユニークな傾向を持っていたというわけではない。いまさら言うまでもなく、日本の哲学と言うのは、歴史的に見て、西洋の哲学を輸入して翻訳紹介したものに過ぎないと言っても過言ではなく、従ってそれをこととする日本の哲学界は、むしろ哲学輸入業界といってもよかった。一人一人の哲学者について言えば、彼らは本質的な意味での哲学者というには程遠く、哲学輸入業者あるいは哲学紹介業者というべきものであった。

そんな傾向の中で、廣松も輸入学問たる西洋近代哲学を材料に使って、あれこれと思弁を展開したということになる。しかし、その思弁の仕方が一風変わっていた。それは、輸入学問の翻訳紹介という範疇を聊か超えており、廣松ならではのユニークさを持っている。無論そのユニークさは、外から与えられた(西洋哲学という)枠組を前提としたものだが、廣松にはその枠組みを超えて、自分自身の新たな枠組みを生み出そうとする意気込みがあった。そこが彼のユニークさの本質的にユニークな点であろう。

廣松が前提とした外からの枠組とは、西洋近代哲学のパラダイムとなった思考の枠組である。それはデカルトから始まり、新カント派に至る、認識論的哲学の枠組であると、少なくとも(廣松以前の)日本の哲学界では認識されていた。したがって、戦前から戦後にかけて日本の哲学界に登場した哲学者の多くは、新カント派的な認識論の枠組に縛られていたものが多かったわけである。日本のマルクス主義哲学者の初期の代表選手とされる戸坂潤でさえも、新カント派的な思考の枠組みに取りつかれていた。彼はそれにマルクスの考え方を接ぎ木しようとしたのだったが、それは接ぎ木という言葉通り、あるものにあるものを継ぎ足した外面的な結合にとどまり、媒介された結合ではなかった。非媒介的という言葉は、マルクスの徒にとっては、軽蔑の感情を含意する言葉である。

そんなわけで廣松は、一方では近代西洋哲学のパラダイムである認識論的枠組みの突破を目指しながら、それをマルクス主義と結合しようとしたということが出来る。廣松の目指したその結合とは無論媒介された結合である。ということは、弁証法的な結合である。果して廣松がそれに成功したか否かについては、今後の論考で少しずつ検討していきたい。ここではとりあえず、廣松の問題意識の一方の柱、近代西洋哲学の認識論的枠組みの突破ということについて、取り上げたい。

「世界の共同主観的存在構造」と題した論文集は、近代西洋哲学の認識論的枠組みの突破という廣松の問題意識を、体系的に陳述した初めての著作であるが、その序章の中で廣松は、次のように宣言している。

「われわれは、今日、過去における古代ギリシャ的世界観の終息期、中世ヨーロッパ的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面、すなわち、近代的世界観の全面的な解体期に逢着している~こう断じても恐らくや大過ないであろう。閉塞状況を打開するためには、それゆえ・・・"近代的"世界観の根本図式そのものを止揚し、その地平から超脱しなければばらない。認識論的な場面に即していえば、近代的『主観―客観』図式そのものの超脱が必要となる」(「世界の共同主観的存在構造」序章)

このように廣松は、現代という時代が、「古代ギリシャ的世界観の終息期、中世ヨーロッパ的世界観の崩壊期と類比的な思想史的局面」に直面しており、その危機を突破するには、「"近代的"世界観の根本図式そのものを止揚し、その地平から超脱しなければばらない」といっている。その根本図式とは、廣松の問題意識においては、「主観―客観」図式のことである。これは、存在とか真理とかいうものを、人間の意識に基づかせることを主張する立場であり、デカルトによって確立され、カントによって展開され、フッサールらカントの後継者たちによって精緻化された考え方である。

この考え方は、人間の個人的な意識を出発点とし、その意識に映った対象を問題とする限りにおいて、主観性や観念性あるいは抽象性といったものを免れない。主観性というのは、人間の意識をあくまでも個人的なものとして捉え、他の人間との関係を捨象してしまうことであり、観念性というのは、世界の存在を人間の意識の相関者として矮小化することであり、抽象性というのは、ひとりひとりの人間が生きている社会的・歴史的繋がりや制約を、それが全く無視していることをさす。社会的・歴史的な制約のなかで具体的な生を生きている人間を、あらゆる制約から自由な抽象的な人間と取り違えているわけである。

こうした問題については、フッサールも一定の理解を示していた。かれの「間主観性」という考え方は、人間が孤立した抽象的存在ではなく、他の人間との関わりにおいて生きる存在だということをとりあげたものだ。しかし、フッサールは「間主観性」を、ひとつひとつの抽象的な主観性から出発して説明しようとした。しかし、ひとつひとつの抽象的な主観性(意識)が、どのようにして意識の共同体である「間主観」的な世界を形成するようになるのか、その筋道は明確にはならなかった。明確になったのは、人間というものは孤絶して存在しているものではなく、他の人間との間で共同体を作らずにはおれないという事実だった。哲学といえどもこの事実は軽視できない。フッサールが言ったのはこのことだったわけである。しかし彼は、そういっただけで、個人と共同体とのかかわりについて、スマートなモデルを構築することはできなかった。それゆえ彼は、新しい哲学の開拓者と言うより、古い哲学の後継者と言ったほうが相応しい。

廣松も、人間の意識から出発して世界の存在構造を明らかにしようとする点では、フッサールの問題意識と共通するところがある。そして、フッサールがそのキーワードとして使った「間主観」という言葉の代わりに、廣松は「共同主観」と言う言葉を使う。だが、廣松が「共同主観」という言葉で意味したものは、フッサールのそれとは大分異なっている。フッサールの場合には、一人ひとりの個人の意識が連帯して意識の共同体を作るという道筋になっているのに対して、廣松の場合には、人間の意識には当初から、すなわちアプリオリに共同体的な性格が刻印されていると考えられている。無論その刻印は、先天的になされるわけではなく、後天的に獲得されるものであり、その点で、厳密な意味でアプリオリとは言えず、アポステリオリな性格が強いが、それだからといって、人間の認識を運命的に制約していることにかわりはない。

廣松が、このような考えに思い至った背景には、西洋思想界で生じた三つの流れがあるようだ。廣松によればそれらは、一つには、「未開人の精神構造や精神病患者の意識構造の研究によってもたらされた知見」であり、二つ目には、「ゲシュタルト心理学が打ち出した発想」であり、三つ目には、「フランス社会学派、なかんずくその『集団表象』の理説がもたらした発想と知見」であった。(同上)

未開人や精神病者の精神構造の研究は、人間の認識というのは本源的に「同型的」のものだという前提をくつがえした。そしてその結果露わになった「異型性」は機能的なものだということが明らかになった。「"知的能力"はおろか、"感性的能力"に至るまで、歴史的・社会的に共同主観化されていることが明らかにされたため、意識の人称性、各自性というかの大命題そのものが・・・もはや維持できなくなった」

ゲシュタルト心理学や集団表象の理説も、共同主観的な制約が、個人の意識に対して外在的、拘束的にはたらいているということを明らかにした、と廣松はいう。

廣松は、こうした認識を前提として、「近代西洋哲学のパラダイムである認識論的枠組みの突破」を図り、それに代わる新しい枠組みとして「世界の共同主観的存在構造」という考え方を打ち出したのだ、と言えるのではないか。

廣松のこうした認識と並行するかの如く、西洋の現代思想の現場では、構造主義やポスト構造主義といわれるような潮流が、哲学の伝統的なパラダイムへの挑戦とその破壊とを試みていた。廣松の思想も、ある意味では、そうした流れに掉さすものだった、ということもできようか。無論彼自身は、同時代の構造主義の流れとは一線を画すつもりだったわけだが。




HOME廣松渉次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2015
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである