知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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廣松渉の存在論


廣松渉の主著「存在と意味」は、廣松なりの流儀で、認識論と存在論との間に橋渡しをし、人間の認識と世界の存在とを整合的・一体的に説明しようと試みたものである。というのも、この二つは西洋哲学の歴史において長らく分裂したままで、認識論を語るものは存在を語らず、存在論を語るものは人間の認識を軽視していたからだ。こうした傾向の中でも、どちらかといえば認識論が優位に立ち、存在論はやや陰をひそめていた観があった。とりわけ、現代哲学に巨大な影響を及ぼしたカントが、人間の認識を意識の内部に限定して、客観的な存在者をそれ自体は認識不可能な物自体としたことで、この傾向はさらに強まったといえる。廣松の問題意識は、このような歴史的経緯を踏まえ、存在論の復権をはかりつつ、それをいかに認識論と融合させるかということにあった。

認識論と存在論の融合を図ろうという場合、常識的には二つの方法が考えられよう。ひとつは人間の認識から出発して存在を基礎付けようとする方法、もうひとつは、存在者の存在から出発して下降的に人間の認識に到達しようとする方法である。後者の方法は、ロマン主義的な傾向の人々によって試みられてきた経緯があるが、なかなかうまい説明を編み出すことができなかった。やはり、人間の認識から出発するほうがわかりやすいし、そのほうがこれまでの主流である認識論的哲学とも親和的だといえよう。

廣松もはやり、認識論的な問題設定から出発する。彼は学派的には新カント派としてスタートした経緯があるから、ある意味自然なやり方だったといえる。

廣松はまず、「アル」という言葉を手がかりにして、存在についての考察を進める。「アル」とはどのような事態なのか、それがわかれば存在についてのクリアな認識が得られるのではないか。

「最広義における『アル』、すなわち、御伽噺の世界のアルや無のアルのごときをも包括する『アル』は、反省的に定式化していえば、所知たる何かが能知たる誰かに"現前する"という関係態の謂いにほかならない・・・誰かがAを意識スルことと、その誰かにとってAがアルこととは、『アル』の最広義においては、同値なのである」(「存在と意味」第三篇第三章)

ここで廣松が言っていることは、存在とは意識を離れてアルものではないということだ。それは、二つの主張を含意している。ひとつには、主観的な意識と客観的な存在者とを別々に存立させ、その二つが出会うことで認識が成り立つという伝統的な考え方を退けているという点、もうひとつは、存在に意識が先立つという点である。これは、意識を離れた存在はありえない、少なくとも人間にとっての存在とは意識の相関的な概念である、とする主張だということもできる。

こういうと、バークリーの独我論のように聞こえるかもしれない。その辺は廣松も意識していて、自分のこの主張が esse est percipi(存在とは知覚されていることである)として受け取られるかもしれないと懸念している。

だが、そのように受け取られるのは、主観と客観とをそれぞれ自存させたうえで、意識することを主観内部での出来事と考えることに基づくのだといって、廣松は自分の立場を弁明する。意識は主観の内部での出来事などではなく、主観と客観がそこから派生してくるそもそもの原基的な場なのである。そしてマルクス・エンゲルスの言葉、「環境に関わる私の関係が私の意識である」を引用しながら、「何かが私にとってアルと何かが私に意識されてアルとは、広義のアルにおいては合致するのである」と主張する。

このようにいうと、やはり観念論であるとする論難にさらされがちである。廣松がいかに、意識の二肢的二重性を強調し、意識というものは対象と不可分の関係にあるのだと強調しても、その意識とはほかならぬ私の意識である限りは、その私がいなくなれば対象もなくなるわけで、したがって私を抜きにして客観的な存在はない、ということになってしまうだろうからだ。

このアポリアを、廣松は例の共同主観性の議論を持ち出すことで、乗り越えようとするわけである。対象とは、私にとっての対象でありながら、しかも私を超えた存在でもアル。というのは、対象は私に対して現前する限りでは私にとっての主観的な存在であるが、その私が共同主観的な認識主体として対象を認知する相においては、対象は客観的な存在となる。そのような存在としては、対象は私がいなくとも存在し続けるのである。

「所知がそれに対してアル能知が、単なる個別的な『能知的誰某』にすぎないとき、当のアルは"主観的に"アル(主観的にガアル、主観的にデアル)にすぎない。これにひきかえ、所知がそれに対してアル能知が、『認識論的主観としての能識的或者』の場合、当のアルは"客観的に"アル(客観的にガアル、客観的にデアル)と認められる」(同上)

この議論は対象の側における二肢的二重性のことを言っているわけである。対象もまた認識主体同様に、二肢的二重性をもっている。それは私に対して或るものとして現前すると同時に、それ以上の或るものとしてもあらわれる。この、それ以上のあるものというのが、対象が共同主観的な認識論的主観にとってとる姿なのである。

かくして、主観・客観双方における二肢的二重性が相互に働きあって対象・主体を渾然と包み込んだ四肢的存在構造という事態が成立する。この構造のなかから、対象が独立自存して、あたかも客観的な存在者というふうに映る場合もある。上述のように、存在とは本来関係性の概念であったものが、実体的な概念に転化してしまうわけである。そのプロセスを廣松は、物象化と呼ぶ。

「原理的にいえば、<判断主観一般>に対して共同主観的にアル事態であるたぐいの命題的事態が主観一般から端的に独立自存するものの相に物象化され、以って『客観的事態』とされ、それが "倒錯的に"真理性・虚偽性の客観的基準とされるに到ります」(「新哲学入門」第二章)

対象はあくまでも主観の相関者にすぎず、したがって主観を離れた対象の存在などありえないのに、あたかも主観から独立自存した客観的な存在として対象を捉える見方を、廣松は物象化といっているわけであるが、そういうことで、伝統的な哲学を捉えてきた主観―客観図式が物象化の結果もたらされた偽の対立だということを訴えているわけである。

廣松は、共同主観なるものを持ち出すことで、主観というものの持つ観念論的な色合いを薄めたつもりなのだろうが、果たして、その意図が成功しているかどうかの判断は、この共同主観なるものが、どれほど現実的な概念であるかにかかっているといえよう。

その場合、この共同主観の概念を構造主義者たちのいう構造の概念と対比させて論じることには、大きな意義があると考えられる。




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