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本居宣長「石上私淑言」を読む:もののあはれ論


本居宣長の著作「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」は、「紫文要領」と並んで、「もののあはれ」論を展開した著作である。「紫文要領」がその題名にあるとおり「源氏物語」を材料にとって「もののあはれ」を論じているのに対して、「石上私淑言」のほうは、和歌を通して日本人特有の「もののあはれ」を重んじる姿勢を論じている。国文学者の日野龍夫によれば、この二つの著作はいずれも宝暦十三年(1763)に書かれており、しかも宣長が「もののあはれ」という言葉を用いて己の思想を語ったのはこの二つの著作に限られるという。後年「源氏物語玉の小櫛」が出版され、そのなかでも「もののあはれ」という言葉が出てくるが、この著作は「紫文要領」に手を加えたものなので、実質的な内容は「紫文要領」と変わらない。

宣長の「もののあはれ」論の特徴は、「もののあはれ」に体現された日本人の文学的な感性を中国人のそれと比較し、そこから日本人のアイデンティティを導き出しているということにある。もっぱら中国人と比較したのは、宣長の時代には、日本人との比較対象になるような外国は、実質的には中国しかなかったからである。その唯一の鏡ともいうべき中国を通して日本人のアイデンティティを探ったというのがこの著作の大きな特徴なのであり、その点でこれはある種の比較文明論にもなっている。

この「もののあはれ」を宣長は、「もののあはれを知る」という文脈の中で説明している。「もののあはれ」とは、それ自体として客観的に存在するあるものではなく、「もののあはれを知る」という人間の心の動きにともなって生じてくるものとされる。自然や人の生き様に接して、人が深く感ずることがある、その感ずる働きに注目して「もののあはれを知る」というように表現される。だからこの「もののあはれを知る」ということは、人間の心の働きについて言われるものなのである。

「何ごとにも心の動きて、うれしとも悲しとも深く思ふは、みな『感ずる』なれば、これがすなはち『もののあはれを知る』なり」。このように、心の動きが深い感動となって現れる、その感動を表現する、それが歌なのであり、「もののあはれ」を旨とした文学なのだと宣長は考えるわけである。こうした点で、宣長の考える文学は、きわめて感情を重んじる、というより、専ら感情に偏った見方といえる。

日本人が「もののあはれを知る」を重んじるのに対して、中国人は、いわば「物の道理を知る」を重んじる。物の道理が大事なことは無論のことで、日本人といえどもそれを否定するわけではないが、しかし、中国人のように、詩歌の世界にまで物の道理を持ち込むのはよくない。中国人は、日本人のように恋愛とか女性的なめめしい感情を詩にすることがないが、これは間違っている。なぜなら、日本の歌にせよ、中国の詩にせよ、もともとは人間のやむにやまれぬ素直な感情を表現することから始まったのに、その素直な感情の表現を抑圧して、物の道理といったことをさかしらに言い立てるのは、人の道に反している、と宣長は言うのである。

中国人はなぜ物の道理に拘るのか、そのわけについて宣長は次のように断ずる。「かの国(中国)は神の御国にあらぬけにや、いと上つ代よりして、よからぬ人のみ多くて、あじきなきふるまひ絶えず、ともすれば民をそこなひ国をみだりて、世の中穏しからぬ折がちなれば、それをしずめ治めむとては、万に心をくだき、思ひをめぐらしつつ、とにかくよからんことをたどりもとむるほどに・・・げに国を治め人をみちびき教へなどするにはさもありぬべきことなれど、これみなつくり飾れるうはべの心にて、実の心の有様にはあらざるなり」

これに対して日本はと言えば、「わが御国は天照大神の御国として、他国々にすぐれ、めでたく妙なる御国なれば、人の心もなすわざもいふ言の葉も、ただ直く雅やかなるままにて、天の下は事なく治まり来ぬれば、人の国のやうにこちたくむつかしげなることは、つゆまじらずなむありける」

つまり、中国人が物の道理にうるさいのは、彼らがみな悪人ばかりであって、その彼らを治めるには物の道理によることが必要だった、それに対して日本人は、神の国の人として心素直な人ばかりなので、わざわざ物の道理をこと上げせずとも、世の中はうまく治まるし、したがって心の自然な感情を流露してもいささかの不都合も生じなかったのだ、と言っているわけである。ここまで行くと、比較文明論の枠を超えて、人種差別に陥りかねないところだ。

ところで、「もののあわれを知る」なかでも最も人の心を動かすのは恋である。「恋は万のあはれにすぐれて深く人の心にしみて、いみじく堪へがたきわざなるゆゑなり。さればすぐれてあはれなる筋は、常に恋の歌に多かるなり」。宣長はこう言って、日本の歌に恋の歌が多い理由を説明している。宣長自身は言及していないが、たしかに日本人が古来恋の歌を最も多く歌い続けてきたことは、万葉集に始まり、勅撰和歌集を経て、その後のあらゆる歌集にわたって言えることである。これは丸谷才一も言っていることで、日本人が恋の歌に拘るさまは、中国人が恋の詩を徹底的に抑圧してきたのと著しい対照をなしている。

宣長が恋を重んじる心は、僧侶の恋に対しても寛容となる。勅撰和歌集の中には、僧侶が恋を歌った歌が多く収められ、なかにはそれを捉えて不謹慎だとする意見もあるが、それは心得違いだといって、宣長は僧侶の恋を擁護する。その理屈が面白い。僧侶の恋を非難するものは、それが仏の道に反しているというが、しかし、「さやうのよき悪しきことの定めは、その道々にてこそともかくもいひあつかふことなれ、歌は筋異なることにて、必ず儒仏の教へにそむかじとするわざにもあらねば、そのしわざのよき悪しきなどはとかくいふべきにあらず」。つまり、歌の道と仏の道は異なるのであるから、仏の道を以て歌の道を云々するのは筋違いだといっているわけである。

ここには、そもそも僧侶が歌を読むことの是非については言及していない。僧侶も歌を読むのは人間として当然のことという前提がある。その歌の道で、「限りある花紅葉をさへめずる心に、限りなき女の色をばいかでかめでたしとは思はざるべき」と宣長は言うのである。歌を歌うからには、女のめでたさを歌うのは当たり前ではないか。「よき女を見ていささかも心を動かさざらんむは、まことの仏なるべし。さらずは鳥虫にも劣りてむげに情なき岩木のたぐひとやいはまし」というわけである。


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