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石川淳の本居宣長論


中公版「日本の名著」の本居宣長編は石川淳の責任編集という形になっていて、石川が「宣長略解」なる文章を序文として寄せている。内容は、石川による本居宣長論といってよいものだ。石川淳といえば森鴎外論が思い浮かぶが、こちらはまた違った切り口から日本の偉大な文章家を論じている。そこからは、鴎外を論じるときのような、感情移入的な態度ではなく、きわめて冷めた感じが伝わってくる。

石川淳が、宣長を紹介するに当たってまず取り上げるのは、「敷島の」で始まるあの有名な歌である。今でこそこの歌は歴史の一こまとして半ば忘れ去られたも同然であるが、一時期の日本では、幼い子どもでさえ知らぬものがなかった。そこで、良い悪いは別にして、この歌が宣長という人物を象徴しているかのように捉えられることともなったわけだが、石川は、この歌の無内容なことを指摘することから宣長論を始めるのである。

石川は言う、この歌は枕言葉や日本らしさのイメージを振りかざして、きわめて技巧的に出来ているように思われるが、その実、言っていることはごく単純なことで、要するに「山桜はおれだ」と言っているだけのことである。これだけのことを言うのに、「いかに"コジキ伝兵衛"にもせよ、なんとまあ泥臭い、まわりくどい、いやらしい歌いぶりだろう。宣長の口吻をまねていえば"えもいはぬわろき歌"(なんともいえないわるい歌)である」。この「コジキ伝兵衛」というのは、宣長の論争相手であった上田秋成が、論敵をけなすのに使った言葉だが、宣長にはそう言われるだけのところがある、と石川は言っているわけである。

そんなわけで、「総じて、宣長の歌はみなとるべからず、もっぱらその文を見るべし」と言って、石川は宣長の文についての講釈に移ってゆくのであるが、宣長の身になってみれば、生涯夥しい数の歌を読み、しかもそれが単なる趣味ではなく、自分の生き方の重大な要素であったと自覚していたればこそ、石川のこの指摘はあまりに宣長に対して冷淡というべきであろう。先に石川の宣長論からは「きわめて冷めた感じが伝わってくる」と書いた所以である。

さて、その文であるが、石川は宣長の文のうち、二つの系列、一つは「もののあはれ」を論じた文、もう一つは「古事記伝」を取り上げて論じている。

「もののあはれ」については、さきに「排蘆小船」にきざして、ついで「石上私淑言」のなかでその意が示され、「紫文要領」に至って深化発展させられたという捉え方を石川はしている。「石上私淑言」と「紫文要領」の前後関係については違う見方もあるようだが、ここではそれを問わず、石川のまとめにしたがうとすれば、石川が言いたいのは、宣長は「もののあはれ」論を通じて、唐こころを排した日本本来の思想に到達したということである。その日本本来の思想は、次第に神がかったものとして、宣長の心のなかで発展してゆくのであるが、その神がかりの部分は、「古事記伝」において全面的に開花したというふうに石川は捉えている。

宣長は、生涯の大部分を「古事記」の研究に打ち込んだ。「宣長にとって、『古事記』は一冊の本ではなかった。当人の学問も、生活も、思想も、感情も、未来まで含めて世界のすべてがそこにあった」。そんなわけだから、宣長が「古事記」の研究から得られたものは、単に学問的な成果と言うのみならず、自分自身にとっての生き方の指針でもあった。ここから宣長の生き方には、古の神々の巨大な影がさすこととなり、そこから我々にとってなじみの深い、「神がかり」の宣長のイメージが生まれてくるのである。

そんな宣長を石川は、「その道のきわみまで乗りつけた宣長という人物はおもしろいと見るが、道そのものと付合おうという料簡はわたしにおいて完全にない」という。ここが石川のクールなところで、だいたい宣長に感心した人々は、ホットになるあまり、宣長の神がかりを幾分でも受け継いでしまうことが多いのである。

宣長をしてなにがそうせしめたのか。それはおそらく宣長の持って生まれた資質なのだろうが、その資質が宣長をして、古事記の神々の世界を現実の世界と重ね合わせるというか、現実の世界は神々の世界の影だと思わせるようになったのではないか、というふうに石川は思っているようである。

当時の日本の学者の殆どは、宣長のようには振舞えなかった。というのも彼らは、宣長の難詰するような唐こころに毒されていたからである。唐こころというのは儒仏を旨としたものであって、当然のことながら怪力乱神のことは語らない。ところが宣長はもとより儒ではないから、怪力乱神を語るのをはばからなかった。そういう姿勢が、宣長をして神々をこの世に跳梁させるような態度をはぐくましめたというわけである。

こんなわけで、宣長はこの世にいながら神々の世界に住みついてしまったのだと石川はいう。「そうはいっても、身柄はまだ人界にとどまって、俗物の一人という籍は抜けない。俗人が神々との附合にしたしく入りこんだからといって、すぐ一箇の神に化けられるというものでもなかろう。半神半俗、これを魔と呼ぶのがおそらく妥当である。古学の奥義もついに来るところまで来た。じつに魔なればこそ、宣長はよく人々を動かし、人々の『たましひ』にうったえることができる。もとこれ宣長の『たましひ』の作用である。当人みずから名づけて『やまとだましひ』といふ」

石川はこう宣長を評した上で、「諸人を振ひ起たしめんとならば、その身において魔をもたざるべからず」というバクーニンの言葉を以てこの序文を締めくくっている。




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