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竹内好の「近代の超克」論


「近代の超克」とは、竹内が言っているように、「戦争中の日本の知識人をとらえた流行語の一つであった。あるいはマジナイ語の一つであった」。この言葉の直接の出どころは、雑誌「文学界」が1942年9、10月号にのせたシンポジウムであるが、それとほぼ同じような議論が、1941年から42年にかけていわゆる京都学派によって展開され、それが雑誌「中央公論」に掲載された。この二つをあわせて「近代の超克」を論じるのが普通である。広松渉の「近代の超克論」も、この二つをターゲットにして論じている。

広松の議論を単純化して言うと、「近代の超克」論は太平洋戦争の合理化を目的としたものということになる。1941年12月の真珠湾の勝利に沸いていた当時にあって、日本の行う戦争になんとか理屈上の大義を与えたいと言う空気が充満していて、その空気が当時のいわゆるインテリたちを捉えて、このような議論をさせた、というふうに広松は見ていた。いわば真珠湾の勝利で頭に血が上った連中が、日本がどんなにすごい国であり、そのすごい国が行う戦争には世界史的な意味での大義があるということを主張したかったというわけである。

竹内も基本的にはこの「近代の超克」論には批判的だが、ただ一刀両断で切り捨てるようなことはしない。それでは「そこに提出されている今日継承可能な問題までも捨てることになって、伝統形成には不利である。能うかぎりの可能性の幅で遺産を捉えなおすのが思想の処理としては正しいと思う」からである。

「近代の超克」論を一刀両断に切り捨てる議論は、竹内がこの文章を書いた当時には支配的だったようだ。竹内はその議論を小田切秀雄で代表させている。近代の超克論への小田切の批判の要諦は次のようなものだ。

「太平洋戦争下に行われた『近代の超克』論議は、軍国主義支配体制の『総力戦』の有機的な『思想戦』の一翼をなしつつ、近代的、民主主義的な思想体系や生活的諸要求やの絶滅のために行われた思想的カンパニアであった・・・軍国主義的な天皇制国家の擁護、理論づけないしそれの戦争体制の容認・服従ということが思想的カンパニアとして行われたのである」

小田切のこの議論を竹内は、イデオロギー裁断といって批判する。イデオロギー論と言うのは、「対立する相手を屈服させてこちら側へ転向させるのが究極目標であり」、思想闘争である。しかし思想というものは闘争するばかりでは不毛である。そういうやり方では相手を説得できないし、したがって建設的な議論にならない。当時すでに頭をもたげていた「近代の超克」の復権要求にもまともに答えることができないと言うのである。

竹内はそういう立場に立って、「近代の超克」論に今日に継承すべき部分があるかどうか、またあるとしてそれはどのような部分か、について追及するという姿勢を取っている。しかし竹内の議論を読むと、どうも「近代の超克論」に今日に継承すべきような積極的で有意義な部分があるとは伝わってこない。

その最大の理由は、近代の超克論が思想としてのまとまりを有していないということに帰着しそうである。この議論に参加したのは、小林秀雄や河上徹太郎を中心とした文学界の同人、京都学派及び日本浪漫派だが、この三つのグループは相互に共通するような問題意識を持っているとはいえず、したがって彼らの間での議論は互いにかみ合わずまとまりもないということになる。唯一共通するのは、日本の国家としての優秀性への信頼感のようなものだけだ。だがそんなものでは議論は高まらない。実際「近代の超克」と題したシンポジウムは、ほとんど無内容に終始したというのが竹内の評価である。

それに比べれば、中央公論に載った三つの座談会は、京都学派の四人の学者によってなされたこともあって、まとまりはある。しかしその内容を見ると、自発的な思想を認めるわけにはいかず、ただ時代の空気を反映しているだけだと竹内は言う。その時代の空気とは、総力戦、永久戦争、肇国の理想に代表されるような好戦的な気分ともいうべきものであった。その気分は支配者(軍国主義者)が国民に一方的に押し付けたものではない。国民自身が「民族共同体の運命のために『総力を挙げ』たのである」。京都学派の議論はそうした国民の総意のようなものを反映していただけで、それをもっともらしい学問的な言葉で飾ったに過ぎないというのが竹内の見立てである。

とはいえ、京都学派の議論には論理的な外観がある。ところが文学界同人や日本ロマン派にはそうした論理性は一切感じられない。河上徹太郎などは真珠湾の勝利を聞いてただただ有頂天になり、青野末吉は「いまさらながら日本は偉い国だ」と感心した。そういう彼らの姿勢を竹内は、「河上ばかりか青野までも、手放しで開戦を礼賛しているのは『知的戦慄』どころか知的混乱であり、知性の完全な放棄ではないか」と言って批判している。

文学界の同人らは、日本の近代化に批判的なものが多かったが、日本ロマン派になると、近代化どころか文明開化さえをも全否定する。こんなわけで一言に近代の超克と言っても、京都学派のような近代主義者もいれば、文学界のような近代化に懐疑的なものもいれば、近代化を通り超えて文明そのものを否定する日本ロマン派もいるなど、この議論はさまざまに方向の異なった主張がまとまりもなく混在し、その結果滑稽といえるような様相を呈したのだと竹内は総括する。

にもかかわらず竹内が「近代の超克」の議論に、今日に継承すべきものを探そうとするのはどういうつもりか。竹内はこの議論のなかに、日本人が自力で思想形成を試みて失敗した経緯を認めている。思想形成というのは大事なことだ。その大事なことにこの議論は一応挑戦した。その限りでは評価してよい。だが現実には失敗してしまい、無様な姿をさらすことになった。だから、その失敗の原因をよくさぐり、それをふまえて、本当の思想形成を行うにはどこに気をつければよいのか、よく考える必要がある。そのヒントがこの議論には豊富に含まれている。そんな問題意識から竹内は、この議論にこだわっているように、どうも伝わってくる。

こういう手続きをきちんと踏まないと、日本人はいつまでも無思想のままとどまる。その懸念を竹内は次のように表現している。

「今日の日本は『神話』が支配していることに問題があるのではなく、『神話』を克服できなかったエセ知性が『自力』でなく復権していることに問題があるのである。まさに今日は『近代主義者』も『日本主義者』もいっしょになって、『今日の日本は真に文明開化の日本』であって、『有難い目出度い次第』(福沢諭吉)だと喜びあっている天下泰平の空前の文明開化が将来されているのではないか」

無思想の空間にエセ知性がはびこるというわけである。小林秀雄などはそのエセ知性までも振り捨てて、ただただ痴愚蒙昧の境地に開き直っている。それだから、「僕は無知だから反省などしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言えるのだと、竹内は日本人の間に根強い無思想的な姿勢にいらだってみせるのである。





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