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江藤淳の勝海舟論


江藤淳は夏目漱石と勝海舟が好きだったようで、漱石については大部の書物を書いているし、海舟については折につけて色々な文章を書いている。この二人を江藤が評価する視点はナショナリズムだ。江藤によれば、漱石も海舟もいつも自分を国家と関連付けて考え、国家のためになることを自分自身に優先した。そうしたナショナリズムを漱石は文学の面で表現し、海舟は政治行動として実行したということになる。

海舟が日本の近代史に果たした役割はバイプレイヤー的なものにとどまったが、彼の政治意識は当時の日本人としては、図抜けた水準を示していた、というのが江藤の基本的な見方である。当時の日本では、ナショナリズムは、攘夷派に見られるような閉じたナショナリズムというべきものと、開国派に代表されるような開かれたナショナリズムとに分裂していたが、海舟は開かれたナショナリズムの立場に立って日本の行く末を憂えた。その立場は、幕府とか薩長とかいうのではなく、それをこえた日本という国家に焦点を当てていた。日本という国にとって、何が決定的に重要なのか、そうした視点から政治を見ていたものは、海舟以外にはほとんどいなかった。薩長の討幕勢力は、結果的には日本の近代化を担うに至るが、それは彼らが閉じたナショナリズムを捨てて開かれたナショナリズムを取り入れた結果なのであり、その点では海舟の立場に立ったということだ。そういう意味でも勝海舟は、日本の近代化にとって無視できない役割を果たした。江藤はそのように海舟を見ている。

海舟が開かれたナショナリズムに立ったについては、彼なりの経験とか見識が働いている。かれは近代海軍の創設者として列強の技術のすごさを学んでいたし、また咸臨丸に乗ってアメリカに行き、西洋的な現実を自分の眼で見た。そういう体験をもとに海舟が抱くに至った思想は、日本もまた国を開いて、経済的な実力をつける必要があるというものだった。その場合経済的な実力は、日本のような海洋国家にとっては、貿易によってもたらされる。つまり重商主義的な富国政策を海舟は考えていたわけである。それが海舟なりの開かれたナショナリズムにつながっていったわけだ。

その海舟の、歴史上大きな意義のある業績として、江藤は二つのことがらを上げる。一つは西郷隆盛との間で行ったいわゆる江戸城無血開城の合意であり、もう一つは西南戦争の際に示した幕府遺臣の局外中立の徹底である。

江戸城無血開城の意義については色々な見方があるが、江藤はこれを、単に江戸市街を戦火から守ったということに限定しないで、日本という国を内乱の危機から救ったというふうに見ている。もしあのとき、江戸を舞台に幕府側と薩長側との間で内乱が勃発していたら、それに英仏が介入して、日本はまずい事態に陥る可能性が大きかった。まかり間違えば清国の二の前になりかねなかった。その危機を救ったのは、日本という広い視点から当時の情勢を見ていたからだということになる。それに対して西郷のほうには、日本というような視点はなかっただろうと江藤は見ている。西郷が海舟の申し出に乗ったのは、日頃から抱いていた個人的な信頼がものを言ったからだ。

そうした日本という視点は、西南戦争の際に、海舟が幕府の遺臣たちに局外中立を徹底させたことにもうかがわれる。当時、幕府の遺臣たちが明治政府に抱いていた感情は険悪なものであり、その思いを西郷側に寄せて、内乱を勃発させる危険は十分にあった。それを海舟は努力して鎮めた。そこには幕府の遺臣が内乱を巻き起こすことによって、日本という国の独立があやうくなるという危機感が働いていた。その危機感は、江戸城無血開城の場合と同じものであって、その危機感を抱いていた人間は、海舟を始めごく少数にすぎなかった。というのが江藤の見方である。

海舟は不平等条約の改正問題にも強い関心を示し、徳川幕府の遺臣たちには、徳川が始めた不平等条約について、徳川の遺臣としてもっとコミットすべきだ、つまりどんどん意見を言うべきだというようなことを言ったが、それもまた、日本という国の立場に立ち、日本の未来を憂える感情から来ていた、と江藤は言う。ことほど左様に、海舟を見る江藤の眼は、海舟を国を憂える国士として見ているわけである。

そんな海舟を福沢諭吉は、榎本武明と並んで奸臣として攻撃したが、それは狭い了見だと江藤は考える。海舟はたしかに薩長政府に取り入るような真似をしたが、なにもそれで自分の権勢を求めたわけではない。政府に入っていることによって、日本という国の行く末にいくらかでも有益な貢献ができるのではないかという下心からそうしたに違いないのだ、と江藤は海舟に同情的である。

維新後の海舟の身の振り方については、色々な見方があるだろう。海舟晩年の発言録、海舟座談とか氷川清話などを読むと、海舟は徳川の遺臣として旧徳川幕府のために働くことを自分の使命としていたように伝わって来る。実際海舟は徳川家のためにいろいろ奔走しているし、徳川の遺臣たちの面倒もよくみている。いまや特産品として知られる静岡茶などは、海舟が徳川の遺臣たちの生業を助けるために始めたものだ。そんなわけもあって、晩年の海舟は、自分がいかに旧幕府の遺臣としての大義を尽したかについて強調する一方、自分の歴史上の業績としては、あの江戸城無血開城のことをもっぱら自慢している。座談も清話もそうした海舟の自慢話ばかりである。

海舟に比較すると西郷隆盛は器が小さいと江藤は見ているようだ。海舟が覚めた目で世界を見、世界の中の日本ということを常に意識していたのに対して、西郷には世界情勢についての知識などないに等しいと言っている。つまり西郷は閉じたナショナリズムにとらわれていたというのである。そういう見方はかなりバイアスのかかった見方だと言わねばならぬだろう。海舟を持ち上げるあまり、維新最大の功労者である西郷を、わざと貶めているように聞こえる。歴史上の事実としては、明治維新を遂行したのは西郷の力によるところが非常に大きかったのであり、その動きに対して海舟はバイプレイヤーとして加わったにすぎないというのが実際のところだ。

歴史の見直しは、かならずしも悪いことではないが、江藤のように、歴史の中で決定的な役割を果たした人物とか、また歴史を動かした大きなうねりについて、バイアスのかかった見方をするのは、歴史の見直しという範疇を越えているのではないか。

それでも江藤は、西郷についての海舟の暖かいこだわりを紹介して、先ほどの西郷への低い評価を埋め合わせしようともしている。しかしその場合でも、海舟がなぜあれほどにも西郷に拘ったのか、その合理的な理由が見当たらないと言っている。かれら二人は感性の面でつながっていただけで、理性の面ではなんらの関わり合いも持たなかったと言わんばかりである




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