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吉本隆明の転向論


吉本隆明の転向論は、戦争責任論の一環としてなされたものだ。吉本の戦争責任論にはいまひとつわからないところがあるが、転向論に至っては大分混乱を感じる。と言うのも吉本は、佐野とか鍋山とか戦時中いち早く転向を表明し、それを厚顔に同志にも勧めたような「転向」組と、宮本夫婦のように思想的な節操を捨てなかった「非転向」組とを一緒くたにし、どちらも同じ穴のムジナのような言い方をしているのだ。しかも宮本たちまでをも「転向」呼ばわりしている。

吉本がいわゆる「転向」組と「非転向」組とを一緒くたにする理由は、両者とも「日本の近代社会の構造を、総体としてつかまえそこなった」ことにあるという。そのために「転向」組は、「日本の社会の劣悪な条件に対する思想的な妥協、屈服、屈折」に陥ったのであるし、「非転向」組は、「優性遺伝の総体である伝統に対する思想的無関心と屈服」に陥ったのである。つまり日本の近代社会について正しい理解をもたなかったことでは、両者は区別がつかないのであって、したがってどちらがましだとかいうことにはならない。同じ穴のムジナのようなものだというわけである。

所謂「転向」組と「非転向」組とが、日本社会について正しい理解を持たないことでは区別がつかないと言う指摘は、指摘としてはありうる。しかしそれを以て、「転向」組と「非転向」組とを一緒くたにする理由にはなるまい。何故なら、日本社会についての無理解はあくまでも知的レベルの能力の問題であり、それにたいして「転向」と「非転向」とは思想的あるいは政治的節操の問題だからだ。知力と節操とは全く異なったカテゴリーに属する。それを一緒くたにするのは、カテゴリー・ミステークと言うのを越えて、意図的な攪乱というべきであろう。

吉本にもし何らかの意図があったとして、その意図はいかなる内実のものだったか。いろいろ勘繰ることはできる。よく言われるのは吉本の共産党嫌いだ。吉本にとっては共産党と言うのは唾棄すべき連中であったから、その連中の間に正義の人と悪の人との区別があるのは面白くない。しかも正義の人が、その正義たる根拠を「非転向」であったことにもとづけ、それによって世人の尊敬を集めているのは余計に面白くない。ここは正義も悪も一緒くたにしてドブに捨てられるような理屈を持ちだし、共産党を総体として貶めるに若くはない。そういうような意図が吉本にあったというのは簡単だが、ここではそれにはくみしないでおこう。

もう一つは吉本自身の戦争へのかかわり方だ。吉本が兵役を逃れたことはよく知られている。吉本には繊細な良心があったようだから、そのことで大分悩んだとも言われている。そうした屈折した感情が、吉本の戦争についてのかかわり方にも大きく影響したことは十分考えられる。そういう事情にあって、戦争責任の問題は吉本にとっては自分自身の良心にも直接触れる微妙な問題だった。吉本の眼には、戦争責任が声高に叫ばれるほど、自分自身の戦争へのかかわり方、それはもっぱら兵役逃れと関わるのだと思うが、それを思い出さずにはおられない。しかしそれは吉本にとっては、心騒ぐことだったに違いない。その場合に吉本がもっとも気に障ったのは、戦時中の「非転向」を理由に正義面をして、戦争に協力した連中や権力に抵抗しなかった連中を糾弾する輩だった。吉本の眼には、宮本などいわゆる「非転向」組はその最たるものと映った。それゆえ彼らをなんとかして引きずり下ろしたい、そんな意図が働いたと言えなくもない。

こう言うと、吉本を大分おとしめているように聞こえるかもしれない。筆者は吉本に対して個人的な感情を抱いているわけでもなく、ましてや吉本が罵倒している宮本らについても何の感情ももたない。筆者がこうして吉本の不具合ぶりを指摘するのは、吉本のような思考様式が日本人の間ではめずらしくないばかりか、むしろ支配的であることを憂慮してのことだ。吉本のような思考様式は、論理的に破綻しているばかりか、学問的にも破綻している。それは論理的で学問的な主張ではなく、詭弁的でためにする議論である。こういう議論が日本の社会ではおうおうまかり通る。そうした風潮について、筆者などはかねて苦々しく思っていた。そうした思いが今回、吉本への厳しい指摘となってあらわれた、というふうに受け取ってもらいたい。




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