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世界認識の方法:吉本隆明とフーコーの対話


「世界認識の方法」は、吉本隆明とミシェル・フーコーの対話を活字化したものだ。この対話は、世界最高の知性と日本を代表する知性との対話として大いに喧伝されたようだが、その割には収穫がないと評された。議論がかみ合っていないというのである。たしかに、今読んでも、二人の議論がかみ合っている様子はない。二人とも、相手の思想を尊敬しており、互いに認め合っているところもあるのだが、どうも相手に対する理解が表層的で、本質に迫っていないと思われるし、したがってその表層的な理解に基づいた対話も表面的なものに流れている。

議論がかみ合わない最大の理由は、二人の問題意識がまるきり異なっているということにある。吉本は、冒頭で宣言しているように、今日の対話ではマルクス主義をどう「始末」するか、それが僕の問題意識だというようなことを言い、それに対してフーコーも、異存はないというようなことを言っているが、その言い方自体に大きな断絶がある。吉本がマルクス主義を始末するというのは、「マルクス主義」を始末するという意味であって、マルクス自体にはいまだに大きな意義があると考えているようなのに対して、フーコーのほうは、マルクスの果たした歴史的意義は認めつつも、今日では全く有効性を失った思想だと考えている。つまりマルクスへの向かい方がかなり違う方向を向いているわけだ。

吉本も認めているように、フーコーはマルクスを19世紀の思想家であって、従ってフーコーの言う古典時代に共通な思考様式を身に着けている。その思考様式は、古典主義時代の終了と共に有効性を失っているのであり、したがってマルクスの思想ももはや有効性を持たない。そうフーコーが考えているのに対して、吉本はそうは考えない。マルクス主義はともかく、マルクス自体の思想には、今日でも有効な部分が多く含まれている。我々にはそれを、現代に生かすべき責務がある、そう吉本は考えている。

マルクスを19世紀の思想家であるという理解は、二人に共通していながら、その今日的な有効性については正反対の評価になっていることには、思想というものに対する二人の見方の相違がある。フーコーは例の有名なエピステーメー論に依拠して、思想の歴史的なダイナミズムを考えたのに対して、吉本のほうは共同幻想論をもとに思想の社会的・歴史的な位相について考えた。その考え方の違いが、二人のマルクス理解の相違をもたらしているのである。

フーコーのエピステーメー論とは、異なった時代のエピステーメーは相互に何等の関連を持たないそれぞれ自立した思想体系だとする一種の断絶論に立っている。古典主義時代(近代)のエピステーメーは、それ以前の近世のエピステーメーとは全く異なる思想体系であり、また現代のエピステーメーとも断絶している。したがって古典主義時代のエピステーメーに属するマルクスの思想は、古典主義時代の終了と共に思想としての生命を終えたのであって、現代には何らの意義も有さない。だからそれについてあれこれと云々すること自体がナンセンスである、という見方をしている。

ところが吉本は、ヘーゲルを受け継いだマルクスの思想には、史的弁証法の要素があって、歴史を通時的に捉える視点がある。それによれば、(フーコーのいう)古典主義時代と現代とは断絶しているわけではなく、むしろつながっているところの方が多い。それ故マルススの思想には、現代にも依然通用する新しさがあるはずだ、というような見方をしている。

つまり、吉本とフーコーとは、マルクスについてはまるきり反対の見方をしているわけだ。にもかかわらず、彼らが互いに尊敬しあい、相手の思想に、自分と共通するものを認めようと努力しているように、この対話を読む限り、伝わってくるのはどういうわけか。

そこにはどうやら、誤解が働いているようだ。フーコーは対話のなかで吉本の思想を幾度も持ち上げている。フーコーは吉本の作品を読んだことがないので、吉本理解は他者を介しての受け売りということになるが、その受け売りには、吉本の思想、つまり共同幻想論を、自分自身のエピステーメー論と親近性のあるものと受け止めている節がある。しかし、吉本の共同幻想論は、フーコーのエピステーメー論とは全く異なるものだ。吉本のいう共同幻想は、フーコーのエピステーメーのように社会的な基盤に対応しているわけでもなく、また各時代相互に断絶しているわけでもない。

そんな吉本の共同幻想についての考え方を、フーコーが積極的なものとして受け取ったのは、おそらくフーコーに吉本の思想を仲介したブローカーの仕業が大きいのだと思う。このブローカーが共同幻想をどんなフランス語に通訳したのかは知らぬが、おそらくフーコーのエピステーメーに似たようなニュアンスの言葉に訳したのだろう。フーコーのエピステーメーには、観念形態としての意味合いもあるから、そういう意味では、幻想に似ていなくもない。幻想も又、吉本によれば、観念の一つの形態にほかならぬからだ。

ともあれこんなわけで、吉本とフーコーの対話は、二人とも互いに相手に最大限の尊敬を表明しながら、どちらも相手の実像から離れて相手を捉え、そのいささかずれた理解に立って、かみあわない議論を展開している。どうもそのようにこの対話からは伝わってくる。




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