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伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」


題名を見る限りでは、近代日本人をモチーフにした本格的な文化論を予想してしまうが、これはそんな大げさなものではなく、日本の近代文学のある種の傾向性について指摘したものである。ただその傾向性が、近代日本人の典型的な発想のスタイルを反映しているために、それを論じることで、近代日本人についての本格的な文化論の、少なくとも序論のような役割は果たしている。

伊藤の議論は、文学者だから当然のこととして、明治以降の作家たちについてのかなりこまかい言及とか、彼らについてのざっくりとした分類などからなっているが、それをごく単純化すると、明治以降の近代日本の文学は、日本人の伝統的な文学的感性が西洋文学と衝突する中で生まれたものだとすることだろう。

伊藤は、日本人の伝統的な発想は、人間同士の社会的な横のつながりに弱く、したがって論理が軽視されて、ひたすら感性がものをいう世界だった、とする。西洋的な発想はこれとは間逆で、人間を社会的な存在として前提し、人間同士の関係を論理的に考えようとするものだった。この相反する傾向のハザマで、日本の近代文学は成り立ってきたとするのが伊藤の議論の大筋だが、伊藤の考えによれば、日本人は、少なくとも文学の世界では、未だに伝統的な発想から抜け切れていない。将来、日本人の発想と、それを反映した文学の世界が、次第に西洋並みに社会化され、したがって論理的なものになってゆくのか、あるいは日本古来の伝統の重みはそう簡単にはなくならないと考えているのか、この小論からはわからない。

伊藤によれば、日本で最初の近代的な文学者といえば、藤村、鴎外、漱石ということになるが、藤村は日本の伝統的な発想のうちに生きていた。藤村の小説のうち、特に「家」以降の作品は、この伝統的な発想を色濃く反映したものである。伝統的な発想をする日本人は、「物事を明確に言わず、暗示的に言い、しかも圧力が強く、強引である」。つまり、論理を重んぜず、権威的である。人間同士の関係は、対等な横のつながりではなく、非対称的な縦の序列として捉えられる。藤村はそういう因習的な世界の住人であった、と伊藤は言う。そしてそういう発想をするものは、なにも藤村だけではなく、近代日本の文学者の大多数がそうであった。私小説作家といわれるものたちは、みなその範疇のものだった、そう伊藤は言うのだ。

これに対して、論理とか人間同士の社会的な関係とかに注目した鴎外や漱石は、日本の近代文学では亜流扱いされた。彼らの作品は、ある種のディレタント趣味であって、文学作品とは受け取られていなかった、と言うのである。逆に言えば、鴎外や漱石の書いたものが文学作品として広く受容されるようになるのは、日本社会が変化したことの指数としての意味を持つと言えることになる。

白樺派は、人間同士の対等な関係とか思考における論理性とかを重んじた運動だったが、彼らが生きていた日本社会になじむことはなかった。武者小路のようにカリカチュアにならないかぎり、有島のように自殺するほかはなかった。彼らの主義を以てしては、当時の日本では無事に生きることはできなかったわけだ。その中で稀有な例外は志賀直哉だが、この男の場合には、やはり伝統的な発想に後退する事で、自分自身の精神の均衡を図った。志賀の小説を読めばわかることだが、そこには論理的な視点がない。世界は論理的に解釈されるのではなく、好悪の対象として情緒的に受け取られる。志賀直哉の文学は、情緒的な日本文学の伝統を一段と大きなスケールで展開したものだ、とするのが伊藤の見立てである。

この見立てにもとづけば、川端康成などは、志賀の亜流ということになる。川端の小説は、徹底して情緒の世界である。世界は主人公の視線の彼方にあって、よそよそしい風貌を帯びている。それが主人公にとって意味を持ち始めるのは、彼の情緒を刺激する限りにおいてである。言ってみれば、タコツボ文学みたいなものだ。

こんな具合で伊藤の日本近代文学論は、明治以降の文学者のほとんどが、伝統的な発想に捉われたままで、日本の文化にとって、いまだに新しい息吹を加えるに至っていない、と言いたいように聞こえる。

このことについて伊藤は、それが悪いとは言っていない。こうした伝統的な発想は、日本人が長い歴史のうちで育んできたものであり、明治維新によるショックがあったからといって、そう簡単に変るものではない、と言いたいのだろう。明治維新によるショックは、外からのもので、日本人の中から生まれてきたものではない。それで変ったのは、支配層の暮らしぶりの一部に過ぎず、日本人の大多数はいまだに、徳川時代以前から受けついできた伝統的な発想に従って生きている、というわけであろう。




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