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子安宣邦「江戸思想史講義」


子安宣邦の「江戸思想史講義」は、徳川時代の思想家たちを、「方法としての江戸」という視座から読み直したものだそうだ。「方法としての江戸」の内実がどのようなものか、著者は主題的には語っていないから、本文の行間から察するほかはないが、要するに従来の読み方とは異なった読み方をしたいということらしい。従来の読み方というのは、徳川時代の思想を儒学を中心にとらえ、それを国学が乗り越えた、あるいは異議を唱えたというものだと思うが、これについては子安も大した違いのない認識を持っているようだ。というのも彼がこの講義で取り上げる思想家たちは、儒学者と国学者だからだ。徳川時代において、現実に思想上の影響力を行使したのが、この二つの学統であってみれば、これ以外の思想家をあげるのはむつかしいといえるのだが、それにしても、これらの思想家たちを対象に、どのようにして従来の読み方とは違う読み方をしようというのか。

著者が最初に取り上げるのは中江藤樹である。中江藤樹は陽明学者だ。陽明学は、徳川時代にあっては、同じく儒学といっても、朱子学よりは旗色が悪かった。徳川時代の儒学は、藤原惺窩とその弟子の林羅山が中国から朱子学を輸入し、それが徳川幕府によって公認されたことで、朱子学が中心となった。徳川時代の思想は、朱子学の日本的なあり方の確立と、その克服という形で展開したのであって、陽明学の出る幕はあまりなかったといってよい。にもかかわらず、江戸思想史を講義するといっておきながら、主流派の朱子学の確立からではなく、陽明学者の中江藤樹から講義を始めたわけはなにか。しかも著者は、中江藤樹の人間としての生き方に焦点をあてて、その思想について語ることはほとんどない。中江藤樹といえば、母親への孝行の手本とされている人だが、著者はそうした中江のイメージがどのようにして確立されたかに関心を集中し、中江の展開した陽明学に言及することはないのである。そこに著者子安の独自の読み方があるのだろうか。つまり思想を読み解くのではなく、思想家の果たした社会的な役割というものに注目するのが、新しい読み方なのだといわんばかりである。

中江藤樹の次に著者が取り上げるのは、山崎闇斎である。闇斎は、伊藤仁斎のほぼ同時代人だが、仁斎が朱子学を超えて古儀学に向かったのに対して、闇斎は朱子学に傾倒するあまり、単なる学問であることを超えて、生き方の指針としてのあり方を追求した。それを闇斎は「道統の心法」と言った。官学としての朱子学は、統治の正統性を保証することに存在意義を求められたが、闇斎は朱子学を、一人ひとりの人間に内面化し、それを生き方の指針としたわけである。朱子学の心学化といってもよかろうと思うが、著者はそういう言葉は使っていない。闇斎は、朱子学者であると同時に神道者でもあった。朱子学と神道は全く異なった世界観だが、闇斎はこの両者を習合しようとした。その結果奇妙なことが起きた。神道は、先祖崇拝を内実とする。その先祖崇拝の感情を闇斎は、朱子学のいう「敬」と同一視した。そこに闇斎の特異な朱子学が成立する。敬に特化した朱子学である。闇斎はまた、神道者として国粋的な感情を持っていた。その感情を闇斎は、夷狄排撃論として表出した。闇斎はその夷狄を中国に同定した。中国を対象にした夷狄排撃論は、神道の教義もさることながら、朱子学によって基礎づけられた。つまり闇斎は、中国から学んだ朱子学を以て、朱子学の祖国である中国を攻撃したわけである。闇斎の中国攻撃論は、賀茂真淵や本居宣長など、国学の国粋主義の先駆といってよいのではないか。

伊藤仁斎と荻生徂徠は、ともに朱子学を乗り越えて、純粋な儒学を構築しようとした人たちだ。じっさい彼らの説には共通するところが多い。かれらはどちらとも、朱子学の否定から己の学を始めた。朱子学を否定して、太古の儒学に範をとるというのがかれらの戦略だった。違いがあるといえば、仁斎が朱子学よりさかのぼって思孟の説に依拠しようとしたのに対して、徂徠はさらにさかのぼって、六経に範を求めようとしたことくらいだ。だがこの相違は、徂徠にとっては決定的なものだったようで、かれは仁斎の学問を全面的に否定した。その否定の仕方は徹底したもので、時には侮辱的な体裁を呈した。これにはわけがあると著者は指摘する。徂徠は仁斎に対して私怨を抱いていて、その私怨を晴らすために、仁斎を必要以上に罵倒しているというのである。たしかに徂徠には、夜郎自大的なところがあって、自分だけが正しく、他のものは無価値だと言う癖があった。しかし、そうした私怨を学問に持ちこむのは、ほめたやり方ではない。そのように著者は考えているようだが、仁斎と徂徠の対立を論じるコンテクストにあっても、両者の思想を内在的に、ということはテクストに即して、逐次比較考量するというのではない。私怨とか、徂徠の性格の片寄りとか、外面的なもので考量しているきらいがある。

三宅尚斎は、徳川時代の思想家としては、あまり高く評価されていない。その尚斎を著者がわざわざ取り上げのは、儒学の日本化がもたらした一つの極端な言説の例としてである。尚斎は、崎門三傑の一人といわれており、つまり山崎闇斎の弟子だったわけだが、師の説のうちの敬の説を受け継いで、それを以て日本的な祭祀、つまり先祖崇拝を基礎づけようとした。尚斎は、日本人の先祖崇拝を、祖霊と子孫との直接的な連続性に求めようとした。それを朱子学によって合理化しようとしたわけだが、朱子には祖霊と子孫との直接的な連続性を積極的に主張するような姿勢はない。むしろ、そういう主張を、「性」の私物化として排斥した。朱子のそうした姿勢を尚斎は無視して、自分の言説に都合のよいように利用した。そこには、純粋に学問的な態度は後退し、自分の説に都合よく先人を読みかえるという態度が表面化していると著者は批判するのである。

以上は、儒学を対象とした著者の江戸思想史の概略である。これを通じて浮かび上がってくるのは、儒学が次第に変容していったということ、その変容はとりあえずは、官学としての朱子学を相対化する方向へと進んだが、次第に儒学そのものの本筋から逸脱する傾向を見せるようになった。三宅尚斎の説はその最たるものだが、こういう傾向が進むにつれて、徳川時代を通じて日本人の思考を律してきた儒学の束縛が解かれ、そこに自由な言説の余地が生まれてきたと、著者は言いたいようである。その自由な言説は、まず賀茂真淵とか本居宣長といった国学者たちによって開始された、というわけであろう。



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