知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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幸徳秋水「兆民先生」


明治34年12月、中江兆民が喉頭がんで苦痛のうちに死んでいったとき、その死に水をとったのは、弟子の幸徳秋水だった。秋水は、それ以前に兆民の遺書というべき「一年有半」及び「続一年有半」の出版に尽力し、師の兆民を喜ばせていた。なにしろ秋水は、17歳の時に兆民に弟子入りして以来、兆民を父として仰ぎ、かならずしも全面的にではないが、兆民の思想にも私淑していた。そんな秋水が、兆民の死後半年足らずの後に、師の兆民をしのんで、伝記と思想の紹介を兼ねた文章を書いた。「兆民先生」がそれである。この文章を読むと、兆民の人物像が彷彿として浮かび上がってくるとともに、その兆民を敬愛してやまなかった秋水の気持ちもよく伝わってくる。そのさまたるや、日本の歴史上もっとも美しい師弟愛を見せられているかのようである。

秋水が兆民に弟子入りした明治20年は、憲法制定をめぐって民権勢力と藩閥政府との争いが頂点に達していた時で、藩閥政府は保安条例を制定して、反政府派をことごとく東京から追放した。兆民も追放されて関西に退き、再起の機会を狙っていた。秋水はそんな兆民の大阪曽根崎の寓居に住み込んで修行を始めたのである。

師の兆民を秋水は革命の鼓吹者と呼んだ。そして秋水自身も後に革命の鼓吹者となり、そのことで国家権力に抹殺されたことは周知のことである。それはともあれ秋水は、兆民の身近にあって、師の思想と行動をつぶさに見た。明治22年に憲法が発布されると、民権派を含めて国中が大喜びをしたが、兆民はひとり懐疑的であった。その理由は、この憲法が、民衆自らが自分の手で勝ち取ったものではく、上から与えられたものだという点にあった。それを評して秋水は言う。「先生は結局恩賜的民権で満足する人ではなかったのである。いわんや、民権の権利のきわめて少ない憲法をや。すなわち先生は、憤然として、いわく、こどもだましの計りごとで、人民を馬鹿にするのもはなはだしい。わが党は、ぜひとも恩賜的民権を変革して、進取的民権としなければならない、と」(中公版世界の名著、伊藤整編集現代語訳)

この目的を達するためには、民権派の勢力を糾合して、藩閥政府を打倒せねばならない。そこで兆民が手掛けたのが、自由・改進両派の連合であった。実際兆民は、いろいろ画策して、とうとう大隈、板垣を一堂に会見させたりした。しかしそうした兆民の努力が実を結ぶことはなかった。そのことを、坂本竜馬による薩長連合の試みと対比させて、秋水は次のように言っている。「坂本君が、薩・長二藩の連鎖となって、幕府転覆の機運を促進することができたのと同じように、自由・改進の二党を打って一丸とし、それでもって藩閥を絶滅するのは、先生が終生の事業とするところであった。そして、坂本君は成功し、先生は失敗した。成功と失敗の分かれ目は、天であるのか。あるいはまた、人であるのか」(同上)。なお、坂本、兆民、秋水が土佐の地縁でつながりあっていることは、いうまでもない。

意外なのは、明治20年代の半ば以降、兆民が政治の世界から身を引いて実業の世界に没頭したことだ。秋水はこれを、金儲けといっているが、兆民は別に金儲けが卑しいことだとは思っていなかった。それは金のことで散々苦労したからだろう。やはり金がなくては、やりたいこともやれない。金もうけは究極の目的ではないが、やはり必要なのである。

そんな金儲けの事業でも、兆民が群馬県に遊廓を経営しようとした時には、さすがの秋水も反対した。ところが兆民は、「公娼はどうしても必要なことである。これを営んだところで、避難される筋合いはない。職業は一切が平等である。どこに貴賤の区別があろうか」(同上)といって取り合わなかった。兆民によれば、議員や政治家がその立場を利用して行う金儲けのほうがよほど非難されるべきである。「彼らがその立場を利用して、金銭をつかむような行為は、まぎれもなく、詐欺・盗賊のたぐいといわなければならぬ」。実際明治の政治家や藩閥官僚には、その地位を利用して巨額の富を獲得したものが多かったのである。

兆民自身は、金儲けの才がなかったと見え、実業はことごとく失敗し、むしろ借金がかさなるばかりであった。「先生の実業家としての十年の苦闘がもたらしたのは、失敗の一語につきる」のである。

それでもなお、兆民の生き方は、秋水をしてうらやましむるに足るものであった。秋水は言う。「見るがいい。先生の晩年、その生活の態度は、天命に安んじ、貧乏を楽しみ、流離・敗残の目にあいながら、一度も天をうらまず、人をとがめず、悠然と落ち着いて、栄誉や恥辱にかかわりなく自適し、表面的な死生の現象を達観していたのである」と。

そんな師の兆民を敬愛するからこそ秋水は、兆民が死の直前に寄こした手紙の中で、七言絶句を作って自分の一生を次のように振り返った時、敬愛の念を込めて返信したのであった。そのやり取りは次の如きものである。まず兆民が、自分の生涯を振り返り次のように詠んだ、すなわち、「夢覚め尋思ときに一笑、病魔ありといえども兆民なし」。これに対して秋水の答えた句、「意気文章大古にとどむ、今より誰かいう兆民なしと」

なんと強固な子弟の結びつきではないか。文章は最後に、兆民の葬儀の様子を記した後、次のような言葉で締めくくられる。「思うに中国の廬山は、ひとかたまりの山であっても、見る位置によって頂上や尾根や岡の体勢がそれぞれ同一ではない、と聞いている。偉人が多角的・多面的なのもまた、これと同じである。これをうつしても、よく全部をうつしつくした、とどうしていえようか。ただ、私が見た兆民先生は、ほんとうにこのような人物である。わたしが追慕する兆民先生は、ほんとうにこのような人物である」





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