知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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人間の学としての倫理学:和辻哲郎の人間論


「人間の学としての倫理学」と題したこの本を和辻は、「倫理とはなにか」という問いかけから始める。その問いに答えるに和辻は、ハイデガー流のことば遊びを以てする。ドイツでハイデガーに師事した和辻は、ハイデガーの存在論を自分の学問の基軸としたとはいえないまでも、ハイデガーのことば遊びは十分学んだようである。この書物はそうしたことば遊びの一つの優雅な成果といえなくもない。

ハイデガーがことば遊びを、語源の解釈から始めるように、和辻も倫理学という言葉をめぐって、倫理の「倫」という漢字の語源解釈から始める。和辻の理解によれば、この言葉は本来「なかま」を意味する。「なかま」とは一面においては「人々の中であり間であり、しかも他面においてはかかる仲や間における人々なのである」。つまり人々の間の関係をさすとともに、個々の人をもさすというわけである。この「倫」に「人」が付け加わって「人倫」ということばが成り立つ。この言葉もまた「ひとの仲間、あるいは人類」の意味に用いられる場合がある。しかし厳密に言えば「人倫」とは「人間の共同態の根底たる秩序・道理」を意味している。倫理学とは、その「人倫」についての学問であると、とりあえず定義することができるというわけである。

ついで「人間」についての語源学的解釈がなされる。和辻は辞書の「言海」を引用しながら、「人間」とは本来「よの中」「世間」を意味したという。それが個々の「ひと」を意味するようになったのだが、それはあながち誤りだといえない。というのも、「人が人間関係においてのみ人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しい」からだ。

日本語においては、この「ひと」ということば自体が、西洋語におけるような孤立した存在としての人を意味するわけではなかった。日本語の「ひと」という言葉は、自分のことをさす場合(ひとをバカにするな、という具合に)もあれば、他人をさす場合(ひとのものを盗む、といった具合に)もあれば、世間をさす場合(人聞きが悪い、といった具合に)もある。このように、「ひと」ということば自体に、単なる個別の人間を越えた社会的な人間関係としての「よの中」「世間」という意味が含まれているのである。

そこで、「世間」あるいは「よの中」についての語源解釈が付け加わる。「世」とは何であり、「中」「間」とは何であるかという疑問への答えを見つけようというわけである。ここで「世間」ということばが仏教起源のものであることが指摘される。「世間虚仮、唯仏是真」という法語があるように、仏教では世間を人間の住む世界として、あるいは現実の人間社会を指す概念として使っており、人間の共同態が意味されている。その人間の共同態としてのあり方は、「歴史的・風土的・社会的なる人間存在である」と和辻は言う。ここでも和辻は、人間を孤立した個人としてではなく、共同態的存在としてとらえているわけである。

最期に、「存在」が問題とされる。ここはハイデガーの議論を援用しながらかなり思弁的になっているので、詳細を省いて簡単に言うと、「存在」とは厳密には「人間存在」を意味するのであり、「物の存在」の如きは存在概念の擬人的転用に過ぎないということになる。

以上、倫理、人間、世間、存在という四つの根本概念を規定した上で、「倫理」の学は「人間存在」の学であり、それこそが「人間の学としての倫理学」なのだと和辻は主張するのであるが、和辻のいう「人間」の概念が、西洋哲学で言うところの孤立した存在としての人間ではなく、ましてや自己意識の主体としてとらえられた観念的な概念ではなく、あくまでも共同態としての社会的な関係を生きている、歴史的・風土的・社会的な刻印を帯びた存在なのだとするわけである。

このような人間観を踏まえて和辻は、西洋の倫理学の歴史を振り返り、それを自分の倫理学と対照しながら批判する。それを読んでいると、どうも議論がかみ合っていないといった印象を受ける。それはやはり、人間をめぐる和辻の捉え方が、西洋哲学の伝統における人間観と根本的に異なっていることによるのではないか、と思わせられるところがある。根本的に異なっているというのは、議論の前提に全く共通の基盤がないということを意味する。共通の基盤がないものについて、まともな比較は成り立たない。それゆえ和辻の西洋哲学批判はうわすべりなものになるわけであろう。

和辻はアリストテレスを手始めにして、カント、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスといった思想家の人間観とそれに立脚した倫理学説を批判するわけだが、彼が評価の基準とするのは、それらの倫理学説が彼の考える人間観とどれくらい似ているかという点である。西洋哲学における倫理学説の一つの到達点はカントの説であるが、これは孤立した人間の意識を議論の出発点としている限りで、和辻の人間観とはもっとも相容れないものとして強い批判の対象となる。これにくらべれば、ヘーゲルは人倫を人間関係の体系として捉え、倫理学をそのようなものとしての人倫に立脚させている限りで、ヘーゲルを評価するのであるが、そのヘーゲルの人間観も、基本的には人間の意識に立脚している。つまりヘーゲルのいう倫理とはあくまでも、精神現象なのである。それゆえ、倫理を人間同士の社会的な関係としてとらえる和辻とは、基本的に異なるわけである。

和辻は、自分の人間観に最も近いのはマルクスだと考えたようである。マルクスは人間の本質を意識にではなく、人間が取り結ぶ社会的な関係に求めた。その限りで、人間を社会的な存在とした自分と近い考え方をしている、そう和辻は捉えたのであろう。

和辻が自分の理論の立脚点として持ち出した概念はいづれも、西洋哲学の伝統とは切り離された、非常にユニークなものだ。和辻はことば遊びから体系構築を始めることが好きなようなので、当然日本語のニュアンスや漢字の語源といったものを強く参照することになる。それらの背景には、中国の文化的な伝統が働いているし(特に漢字を通じて)、また仏教の伝統とその背景にあるインド的なものの考え方も働いているであろう。そういう文化的な伝統は、西洋のそれとはかなり違う地盤に立つものであるから、それらを同じ土俵で比較すると、おかしなことになる。和辻が言うように、東洋的・日本的な文化で培われてきた人間の概念には、個人を強調するような伝統はあまりなく、国家や社会といった共同態との関連のなかで人間を捉えようとする動機が強かった。こうした伝統にあっては、社会が個人に先立つと考えるのが自然なわけである。

ところが西洋の文化的伝統にあっては、個人は個人として自立しており、社会はそうした個人の集合体として、個人より遅れて成立する。共同体が個人に先立つのではなく、個人が共同体に先立つわけである。

これはキリスト教の伝統とも深いかかわりがあるのだと考えられる。キリスト教というのは、基本的には、神と個人とを直接向き合わせようとする傾向が強い。個人の救済は、神との間の個人的な営みなのである。それに対して東洋の伝統、とりわけ仏教の伝統にあっては、神と個人との直接の関係といったものよりも、人間集団全体が一致して救われるということに重点が置かれる。大乗仏教はその典型で、人は自分だけが成仏するのではなく、自分が成仏することで衆生を救済するのだとする、非常に集団主義的な発想がそこにある。そこが和辻の人間観と非常に親和的なのである。

このように見ると、和辻の議論は、東洋的な人間観を踏まえながら、それを無理に西洋哲学の伝統に接ぎ木しようとするところに特徴があり、また無理もある。この本を読んで感じる違和感は、そうしたところに根ざしているようである。





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