知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントとドイツ観念論


近現代の西洋思想はカントを中軸に動いてきたといって過言ではない。西洋思想がなんらかの行きづまりに直面するたびに、カントはよみがえってきた。もっとも大きなカント・ルネサンスは19世紀の末に新カント派の興隆という形で現れたし、20世紀の後半には主として政治思想としての正義論という形で現れた。新カント派は、ヘーゲル以降の行き過ぎた観念論への反動として、正義論は、行き過ぎた経験論としての功利主義への反動として現れたといってよい。カントには、観念論と経験論との両者をともに批判する視点がある。ということは、カントの思想に、観念論と経験論をともに包み込むようなおおらかさがあるということだ。カントの中の経験論的な部分が行き過ぎた観念論への、またカントの中の観念論的な部分が行きすぎた経験論への、それぞれ批判の視座を与えてくれるのである。

カントのこうしたヌエ的な性格は、カントの思想がデカルト以来の大陸の合理主義的伝統と、ロックをはじめとしたイギリス経験論と、この二つの大きな潮流を統合したことに基づく。大陸の合理主義的伝統は、壮大な観念論の体系に結実した。その観念論にはもろもろの綻びが付きまとっていた。その綻びを鋭く突いたのが、とくにヒュームに代表される経験論的な考え方である。カントは、ヒュームを読むことで、独断論のまどろみから解放されたといっているが、その場合の独断論とは、極端なかたちでの観念論を意味していたのである。

そんなわけであるから、ヘーゲル以降極端な観念論が横行するようになり、精神とか理念といった大袈裟な観念が、人間の個別的な経験を超越したものとして語られるようになると、そうした大袈裟な構えを中和するものとしてカントの中の経験論的な要素が注目された。フッサールとか経験批判論を含めた新カント派の運動や、ラッセルに代表される唯名論的な思想は、カントの中の経験論的な部分に大きく依拠していた。それらは、人間の経験にすべてを立脚させることで、議論が極度に観念的になるのを防ごうとしたのである。

一方、経験論が行き過ぎると、別の弊害が目立ってくる。経験論を徹底させるとヒュームの懐疑論に行き着くが、懐疑論はややもすると、人間にとって普遍的な価値というべきものを軽視、あるいは嘲笑するようになる。功利主義はそのグロテスクなかたちである。功利主義は正義ではなく利益をすべての判断基準にする。利益の追求こそが人間の本質であると叫び、露骨な利己主義を合理化する輩も出てくる。そうした行き過ぎた姿勢を正すには、やはり人間的な理想というものがないといけない。カントにはそうした理想への渇仰というようなものがあった。カントの理想主義的な傾向が、いまの世界を席巻している功利主義的な傾向に対する解毒剤として働くのである。

カントが今日なお影響力を失わず、正義論をはじめ政治的な言説においてかえって影響力を拡大している背景には、カントの理想主義が大きな役割を果たしている。かつては、カント主義といえば、どちらかというと経験論的な要素のほうが重んじられていたが、今日では逆に、理想主義的な、どちらかといえば観念論的な要素が重んじられるようになっている。今日、カント主義という言葉は理想主義というような意味合いで使われていることが多いのである。

カントの思想をごく簡略にあらわしたした言葉として「アプリオリな総合」がある。アプリオリとは先験的という意味で、人間に生まれながら備わっている能力をいう。それは経験に先立つものだから、個々の経験の内容を超越している。一方総合とは、具体的な経験にかかわる。経験がなければ総合はなりたたない。しかし経験はあくまでも人間の偶然の動きに左右されるものであるから、あくまでも偶然のものであり、しかも主観的であって、客観的な必然性はもたない。ところが人間の認識には、主観的な偶然性を超えて、客観的な必然性を主張できるようなものがある。その典型としてカントは、「アプリオリな総合」という一見形容矛盾的な言い方で表現されるものを提起するのである。だから、カントの認識論及びそれに基づいた存在論は、経験的なものと先験的なものとの組み合わせであって、そういう意味で、経験論と観念論との混血だと言われるのである。

「アプリオリな総合」の具体的な例として、カントは数学をあげる。数学は、カント以前には先験的かつ観念的な実在を対象としたものと言われてきた。したがって数学が語るところは、あくまでも分析的である。分析的というのは、主語の内容にすでに述語の内容が含まれていることをいう。つまり分析的というのは、同義語反復にすぎない。ところが総合は、まったく異なったものを結びつけることである。総合はあくまでも、経験的であり、したがってアプリオリではありえないはずだが、カントは数学の対象は総合的な判断に結びつきながら、しかもアプリオリな必然性を持つと考えた。カントのこうした考えは、ラッセルが批判して以来、現代数学でも否定的に受け取られている。現代数学は、数学は分析的な概念を対象にしていると考えるようなのである。

ともあれ、カントの「アプリオリな総合」という概念は、シビアな弁明要求にかかわらず、哲学史上大きな意義をもった。経験論と観念論とを、これ以上に手際よく和解させるものはないからである。

カントの著作群は、認識論的・経験論的な議論にかかわるものと、人間にとって普遍的な理念にかかわるものとに大別される。「純粋理性批判」は、人間の認識作用の分析にあてられた展開的な著作であり、「実践理性批判」は、人間にとって普遍的な理念について議論した著作である。「実践理性批判」の延長上に、「永遠平和論」とか「啓蒙について」をはじめとした一連の政治的な著作がある。今日カントの著作の中で最も大きな影響力を発揮しているのは、政治的な著作のほうである。

以下、カントの著作を読みながら、その思想を腑分けしていきたいと思う。また、カントに始まるドイツ観念論の流れのうち、フィヒテとシェリングについても触れてみたい。


カントの問題意識:ヒュームとの対決
アプリオリな総合判断:カントの純粋理性批判
超越論的ということ:カントの純粋理性批判
カントにおける空間と時間
カントの物自体
カントのカテゴリー論:認識の枠組としての純粋知性概念
アプリオリとアポステリオリ:カントの純粋理性批判
カントの図式論と想像力
フェノメノンとヌーメノン:カントの純粋理性批判
理性と理念:カントの純粋理性批判
理性の誤謬推論:カントの「心」
カントのアンチノミー(二律背反)
ニュートンとライプニッツの形而上学論争
カントによる神の存在証明批判:純粋理性の理想

理性の実践的使用:カントの実践理性批判
カントの道徳哲学

カントの政治思想

フィヒテの思想
シェリングの思想



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