知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントにおける空間と時間


空間と時間という観念を、感覚の対象が備え持つ属性としてではなく、したがって経験を通して得られる客観的な観念としてではなく、人間の感性にそなわった主観的な形式であると主張したのは、哲学史上カントが最初だった。無論極端な観念論者の中には、感覚の対象全体に客観性を認めず、単なる意識の創造物だと主張するバークリーのような哲学者もいたにはいたが、その場合、客観性を否定されるのは感覚の対象全般であって、そのごたまぜの中に空間と時間も含まれていたにすぎない。空間と時間を特定して、それを主観的な形式だと喝破したのは、やはりカントが初めてだといってよい。

カントにとって空間と時間とは、事物そのもの(感覚の対象)にそなわったものではなく、主観側にそなわった能力である。カントはそれを直感の形式と呼んだ。空間と時間とは直感の形式として人間の感性にアプリオリに備わっている。人間はそれらの形式に当てはめて対象を直感するのである。

カント哲学の最大の特徴は、認識の作用にアプリオリとアポステリオリの区別を持ち込み、認識を主観と客観の共同作用だと見る点にあるが、その認識の出発点たる感覚について、アプリオリな形式としての空間と時間を持ち込んだわけである。であるから、時間と空間の究明はカントにとって、哲学の基礎をなすものである。純粋理性批判の冒頭に、カントが時間と空間に関する言説を置いた所以だ。

カントが空間と時間とを感性の主観的な形式と考えたことの背景には二つの事情が働いている。一つは、デカルト以来の哲学はいずれも空間と時間とを物自体に関連付けて理解しているが、我々人間には物自体そのものを把握する能力は備わっていない、物自体を物自体として把握できるのは神のみなのであって、人間は物自体に触発された結果として生じる現象をとらえることができるだけなのだとする信念がひとつ。もう一つには、空間と時間とを物自体の属性ととらえることからは、解きがたい矛盾すなわち理性のアンチノミーが生じるということがあった。

アンチノミーについては、別稿で詳しく触れることにして、ここでは、デカルト以来の時空論(特に空間論)についてのカントの批判を見てみよう。

周知のようにデカルトは、物体を精神と並ぶ二つの実体のうちの一つとして、精神と対立させた。精神の方は「われ思う」という形であらわされた人間の自意識と考えてよいが、物体のほうは精神とは外在的な関係にしかないただの延長としてとらえられる。延長の本質は空間である。デカルトにとって空間とは、精神とは全く異なった実体でありながら、精神の中に像を結ぶことで我々人間の意識に現前するという不思議な役割を果たす。何故精神とはかかわりのないはずの実体が、精神という実体の中で像を結ぶのか、その疑問について、デカルトは答えていない。カントはそう考えるわけである。

デカルトにとっては、空間とは物体すなわち延長が占めている場所そのもののことである。だから物体がなくなればその場所もなくなり、空間はその分減ってしまうということになりかねない。此のアポリアを回避するために、デカルトは物体が無くなった後の空間は消えてなくなるのではなく、ほかの(目に見えない)微細な物質によってとって変わられるのだという苦しい言い訳をした。デカルトにとって真空は理論上ありえなかったのである。デカルトは真空のかわりにエーテルというものの存在を仮説として立てた。エーテルとは、真空ではなく、なんらかの延長ある物質がつまっている空間なのである。

デカルトの空間論を厳しく批判したのはニュートンである。デカルトのいうように、空間とは物体そのものと切り離せず、その物体を実体として絶対的なものに祭り上げることは、神に対する冒涜として映ったのである。ニュートンにとっては、空間は神が創造したまうたのであり、その理由は万物を創造する器として必要とされたからである。

ここからニュートンの絶対空間論の考え方が出てくる。絶対空間とは、個々の物質とは別にそれ自体として自存している空間であり、物質が取り除かれても消失することはない。この絶対的な空間を、ニュートンは神の「感覚中枢」と呼んだ。

これに対してライプニッツは、ニュートンの絶対空間には神を否定する要素があると批判した。物体を作り出したのが神であることは誰にも明らかなことであるが、その神が絶対空間の助けを借りて物質を創造したと考えることは、神の絶対性を否定する考え方だというわけである。

その代わりにライプニッツが持ち出したのは、物質は神によって作られ、空間はその物質相互の関係を表すための概念に過ぎないという考えである。こうすることでライプニッツは、物質も空間も神によって創造されたという点では、同じ平面に位置すると考えたわけである。

この三者の考え方は、空間と神との関連においては重大な相違を示しているように見えるが、実際にはそうではないとカントはいう。どれも、空間を物自体との関連において、すなわち物自体が存在するための条件として考える点では差はないというのである。

無論カントといえども神を軽視するわけではない。それどころか自分の立場こそ神の尊厳に相応しいと思っているほどなのである。

その立場とは、空間を物自体との関連において考えるのではなく、人間の主観的な要素との関連において考えるというものだった。つまり空間とは客観的な実在なのではなく、対象を認識するための主観的な形式なのだ。そう考えれば、空間をめぐる哲学上の論争にもけりがつくし、空間や時間をめぐるアンチノミーも意義を失うことになる。そうカントは考えたわけである。

ここではもっぱら空間について触れたが、時間についてもほぼ同じようなことが当てはまる。時間もまた、伝統的な考えでは物自体の様相としてとらえられたが、これもまた空間同様に、感覚における主観的な形式なのである。相違は、空間が外的な対象(現象)とかかわるのに対して、時間は主に人間の内的な経験とかかわるという点である。内的な経験とは自己意識と深くかかわっている経験である。


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