知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントの図式論と想像力


カントの図式論は、感覚に与えられた個別的な像と知性の一般的な概念を媒介する論理である。感覚に与えられた個別的な像は、それだけを取って見れば、多様で混沌としているばかりであり、その中には何らの秩序はない。そこに秩序をもたらし、混沌とした感覚内容に論理的で明晰な形を与えるのは純粋知性概念としてのカテゴリーである。しかし、カテゴリーと個別の感覚とは、無媒介に結びつくことはできない。そこで、この両者を媒介する第三のものとして、図式と言うものが登場するわけなのだ。

このあたりの事情をカントは次のようにいっている。「ところで純粋な知性の概念は、経験的な直感、すなわち感覚能力による直観とはまったく異種なものであり、この概念はどのような直感のうちにも見出すことはできない。それでは直感を純粋な知性の概念のもとに包摂することは、どのようにして可能となるのだろうか。すなわちカテゴリーはどのようにすれば現象に適用することができるのだろうか」(中山元訳、以下同じ)

カントはこの問いに答える形で、第三のものとしての図式を登場させる。図式とは、現象と同じく心に描かれた象としての性格を持つと同時に、カテゴリーと同様に純粋な性格を持っている。つまり、現象とカテゴリーの双方に共通する部分をもっているがゆえに、その両者を媒介する役目を果たすことができる。カントはそういうわけなのだ。

では、その図式とはいったいどのようなものなのか。この部分は、カント哲学にとって急所となるところなのだが、いまひとつわかりにくいところがある。

図式を説明するための事例としてカントが持ち出しているのは三角形である。一方では、感覚の中にあらわれる様々な三角形のイメージがある。これをカントは形象といっている。他方では、純粋概念としての三角形がある。図式とは、純粋概念としての三角形と個別の形象としての三角形と、両者の特徴を併せ持つものだ。だから、三角形の個別の形象を三角形の純粋概念に包摂することができるのだ。そうカントはいうわけなのだが、そういわれても、我々読者は、果して図式がどんなイメージのものなのか、いまだに明瞭なイメージを持つことができない。

形象は非常にわかりやすいし、いつでもどこでもイメージを再現することができる。一方、図式についてはどのようにしてイメージできるのか、そこのところが曖昧なのだ。カントはいう、「形象というのは、産出的な想像力の経験的な能力の産物であるが、これに対して感性的な概念の図式は(空間の中の図形として)、アプリオリで純粋な想像力のいわばモノグラム(花押や落款)のようなものに過ぎないということである」

三角形の純粋概念はすべての個別的な三角形のイメージを包摂することができるが、それはその三角形の概念の図式がすべての三角形の形象に対応できるようなイメージを内在させているためだ。どうもカントはそう言いたいようなのだ。概念の図式はモノグラムのようなものだが、それはあらゆる形象を想起させるような豊かな内実を伴っている、というわけか。

ところで人間がこの図式を呼び出すことができるのは、想像力を通じてである。想像力は時間の中で展開される。それは一方では時間の流れの中で対象を再構成しながら、再構成する主体としての自己を認識する。それが「自己統合の意識の統一」とカントが呼ぶものである。人間は、この統合された意識の中で、概念の図式を呼び出し、それを個別の現象に適用するのである。

図式は三角形のような、具体的な概念に対応するばかりでなく、カテゴリーにも対応しているとカントは言う。量のカテゴリーには量の図式があり、因果関係のカテゴリーには原因と結果の図式があるということになる。しかし、それぞれのカテゴリーに図式がどうかかわるのかについては、三角形の例以上にわかりにくい。

この点についてカントは、「超越論的な時間規定」が「知性の概念の"図式"としての役割を果たす」と言っている。「時間は、内的な感覚能力で描かれる像の多様なものの形式的な条件であって、すべての像を結びつける形式的な条件となるものであるから」、現象と同種のものであるとともに、そのうちにアプリオリなものを含んでいるという点で、カテゴリーと同種のものである。この時間規定を媒介項にして、「カテゴリーを様々な現象に適用できるようになる」というわけである。

これをたとえば「実体」の概念に適用すると、つぎのようになる。「現象がどれほど変化しようとも、実体は持続しつづけ、事前に含まれる実態の量そのものは増加も減少もしない」と言う言明は、時間規定のうちの持続性に根拠を有している。変化の中で持続し続けるものを、われわれは実体と称しているのである。

時間規定によるカテゴリーの説明は、その他の部分でも行われる。因果関係は時間の中での出来事の継起に根拠を有し、相互関係は同時存在ということに根拠を有している、という具合である。

時間とはそもそも、感性にそなわったアプリオリな形式として、現象が成立するための条件であった。それがここでは、概念の図式として、カテゴリーと現象を結びつけるための媒介項になっているわけである。

図式論は、アプリオリな総合認識を可能にさせるものとして、カントの超越論的哲学の土台となるものだが、その割には、丁寧に説明されていない。そんな印象を受ける。


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