知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カントによる神の存在証明批判:純粋理性の理想


人間の理性は、理念を持つだけでなく理想を持つこともできる。たとえば、ストア派のいう「賢人」がそれである、とカントはいう。賢人は、完全に純粋な徳と人間の知恵という理念を体現したものとして、人間の行動の基準となるものである。人間は自分自身をかかる理想と比較し、これを基準として判定し、自らを向上させる。我々はこれらの理想の客観的な実在性を認めるわけにはいかないが、だからといって、かかる理想を単なる想像力によって作り上げた幻像と見做すべきではない。理想は、理性にとっては欠くことのできない基準なのだ。そう、カントは強調するのである。

理想のうちでも特別の理想、理想の中の理想というべきものがある。神である。

神は、根源的存在者とも名づけられる。また、あらゆる存在者中の存在者ともいわれる。すべての存在者の根拠となる存在だからである。しかし、この「存在」あるいは「存在者」という言葉が曲者である、とカントは言う。なぜなら「理想」とは我々の理性にとっての基準となるものではあるが、それが実在するかどうかは、我々の認識能力を超えることだからである。

しかし、太古以来、人間は神の存在を信じて疑わなかった。それはそれで、敬意を表すべき態度であるが、しかし、世の中には、人間の思弁的な理性に基づいて神の存在を証明しようとしたがる人たちがいる。そういう人たちは、神という理想を人間の認識能力の枠の中に当てはめようとして、かえって神の尊厳を損なっているのである。そうカントは言って、神の存在を思弁的理性に基づいて証明しようとする試みを批判する。純粋理性批判の中でも、もっとも問題意識に富んだ部分である。

思弁的理性によって神の存在を証明する仕方として、カントが取り上げるのは三つである。存在論的証明、宇宙論的証明、自然神学的証明である。カントは、これらを次々と批判することによって、神は思弁的理性の対象なのではなく、人間の実践的な生き方にとっての基準なのだということを、改めて強調したいわけなのだ。

存在論的証明としては、デカルトの議論が代表的なものだ。これは神という概念の中には存在という概念も含まれているということを根拠にして、神の存在を証明しようとするものである。つまり、「神は全能である」と言う場合の「全能」には、実在性も含まれている。なぜなら実在しないものを全能的な存在者とは言えないからだ。よって、神は必然的に実在する、という議論だ。

これは神と言う主語には存在と言う概念が内在していることを根拠に、存在を神の述語にすることは、分析的な判断、あるいは同義語反復、すなわちトートロジーだと主張することに他ならない。

これに対してカントは、存在は述語ではないと反論する。単に想像された100ターレルは実在する100ターレルと全く同じ述語を持つことができるが、実在性は主張できない。なぜなら存在するということは、述語によって示されるものではないからだ。「ある」という繋辞は述語ではなくて、主語の述語に対する関係を示すに過ぎないのである。

宇宙論的証明の代表格はライプニッツの議論である。これは世界に偶然的なものが存在しているとすれば、必ずそれを条件づけたものがあるはずだという根拠に従って、すべての存在を条件づけたところの究極的な存在者、すなわち自分自身は無条件的で、あらゆる存在の端緒となったような存在者があるはずだという議論である。この議論も最後には、そうした存在者の存在を必然たらしむる根拠として、存在論的な証明をもちだすことになる。

自然神学的な証明とは、もっとも単純で、それ故もっとも根の深い信念に依拠したものである。それは、世界の素晴らしさや美しさに感嘆する人間の自然な感情から出発して、こんなにも素晴らしく美しいものが偶然に生まれたとは考えられないから、そこには必ずやこれらを生み出したものの意図が働いているに違いない。つまりこの世とは、神の深遠なる意図が実現されたものなるが故に、かくも美しく、かくもすばらしいというわけである。

この自然神学的な心情を、カントは崇高な感情だと言って敬意を表しているが、だからといって、この証明方法が必然的確実性を要求したり、神の客観的実在性を主張したりすることは許されないと批判する。この証明だけでは、神の存在の証明にはならず、ここでもまた存在論的証明の手助けを得ることが必要になる。したがって、神の存在証明は結局存在論的証明に集約される、とカントは結論づけるのである。

このようにカントは、思弁的理性による神の存在証明の試みを、ことごとく退けるわけであるが、それは、神は認識の対象となりうるような客観的実在ではないということを主張したにすぎず、神の意義そのものまで否定したわけではない。カント自身は、神をめぐる崇高な理念に重大な意義を付与しているのみならず、神が実在する可能性についても、否定しているわけではないのである。しかし、その実在性は、我々の認識によってはとらえることができない。それは、我々の認識が現象にかかわることに留まり、物自体には及ばないのと同じことである。そうカントは言うわけである。

カントが最も言いたいことは、統制的原則と構成的原則を混同するなと言うことだ。統制的原則とは、理性の働きを方向付ける格率のようなものである。それにたいして構成的原則とは、人間の客観的な認識を可能にするようなものである。一方は、思考の働きのみにかかわり、他方は、認識対象の実在性にかかわる。よって立つ地盤が違うわけである。

ところが人間というものは、この両者を混同したがるのである。そうすると、単なる空想の産物に過ぎないものを、客観的に実在すると考えるようになるわけである。そうなると、人間は自分の作り出した理想によって、自分自身が支配されるという奇妙な事態が生じる。それは、理念の物象化といえる事態であり、また人間の自己疎外といえるような事態ともいえる。

カント自身はこうは明言していないが、彼の提出した問題意識には、フォイエルバッハやマルクスに通じるものがある。

また、カント自身は神という理念が持つ統制的原則の意義を評価しているが、いったん神の実在性への信念がゆらぐと、こうした意義も否定されるようになるのは自然の勢いと言うべきものだろう。ニーチェが「神は死んだ」と言いだすのは、カント以後そんなに遠くない時点での出来事である。


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