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カントの道徳哲学その二:実践理性批判


「純粋理性批判」と「実践理性批判」の関係を、物自体の捉え方の差異に見たのはハイネである。ハイネは詩人であって、プロの哲学者ではないのだが、ベルリン大学でヘーゲルの講義を受けたこともあり、ドイツ哲学について一定の知見をもっていた。彼の学術的な書物「ドイツ古典哲学の本質」は、ドイツ古典哲学の創始者としてカントを位置付けているのであるが、その中でハイネは、カントは「純粋理性批判」において封印した物自体の概念を「実践理性批判」において、裏口から招き寄せたというようなことを言っているのである。

この場合、ハイネが物自体という言葉で言及しているのは、最高善とか神といったものである。ハイネは基本的には無神論者であり、エピクロス的な意味での幸福主義者だったので、最高善とか神といった概念には大した意義を認めないのであるが、カントがそういった概念を哲学の対象として取り上げることには異存を示していない。なんといっても、ハイネの時代に神の存在を否定するのは危険なことだったし、最高善といったものも、人間が人間らしく生きるために不可欠な価値とされていたからだ。

ともあれカントが「実践理性批判」の中で展開している議論は、道徳とか宗教にかかわる事柄である。そうした事柄は、純粋理性の対象とはならない。純粋理性の役割は、対象が人間にとって現れるさまを現象として認識することであり、その対象が感性にとってあらわれる原因としての物自体そのものは考慮の外においた。しかし、理性的な存在者としての人間は、対象の理論的な認識にとどまらない活動をしている。道徳とか宗教と呼ばれるものはその典型的なものだ。そうした事柄は理論的な認識では捉えられない。例えば神の存在は、理屈によっては証明できない。神の存在が現実性を帯びるのは、人がそれを信仰することによってである。

そこで、人はなぜ神を信仰するのかということが問題になるわけだが、カントはそれを事実の上に基礎づける。カントは、人間は本来神を信じるように作られているというのだ。人間が神を信じるのは事実として見られるのであるから、その事実を前提として、問題の解決を図ればよいということになる。「実践理性批判」は、純粋実践理性の原則についての「定義」から始まるのであるが、それは実践理性にかかわる事柄が、事実として与えられているということを意味するのである。実践理性をめぐる議論は、「それは何か」について論じるのではなく、「それをいかにして実践するか」についての議論なのである。

「純粋理性批判」は、個別の現象の分析から始まって次第に抽象的な原理へと高まっていったのだったが、実戦理性はそれとは逆に、抽象的な原理から始まって具体的な事柄の説明へと下りて来るという構造になっている。その場合実践理性にとっての抽象的な原理とは、道徳的なものである。その道徳は、カントによれば神が人間に与えてくれたものである。だから人間にとって所与の前提として、つまり事実としてある。その事実としてある実践理性の原理をことこまかく分析してみせるというのが、「実践理性批判」と題したこの書物の目的なのである。

「純粋理性批判」の対象となった人間の認識能力も、あえていえば、実践理性同様、神によって与えられたものだ。もっとも物自体を棚上げする「純粋理性批判」の議論においては、神という言葉を規定根拠としては使えないので、カントは神によって与えられたという言い方はせずに、「先天的」という言葉を使っている。先天的とは、生まれながら人間に備わっているということだ。そういう意味での「先天性」を、実戦理性もまた備えている。そうした先天性は、カントの時代には神によって基礎づけられたわけだが、今日では「構造」とか「文化」によって基礎づけることが普通だ。たとえば構造主義を標榜する人たちは、人間の文化やその基底にある言語、およびその具体的な活動である思考のパターンを、統一的な原理によって説明する。その説明の原理は神ではなく、人間集団を全体的に律する構造だとされるわけである。

理性的存在者としての人間は、対象の認識を目的とした理論的働きと、道徳や宗教といった実践的な営みとから成り立っている。人間としては一つの統一的な活動を行っているわけであるが、その活動の中身は、理論的な認識と実践的な道徳とに分けられる。これをカントは、純粋理性の理論的使用と純粋理性の実践的使用というふうに分類している。理論的使用においては、あくまでも対象の認識が問題であり、現象として現れる限りでの対象が問題となる。その背後にある物自体はとりあえず括弧に入れられる。それに対して純粋理性の実践的な使用においては、道徳や宗教にかかわる事柄が問題になる。それらをハイネは物自体と呼んだわけだが、カント自身は実践的な原理と呼んでいる。

その実践的な原理としての道徳を、カントはきわめて原理主義的に考察している。その原理主義は「定言命題」という形で表明される。定言命題とは、絶対的にあるいは無条件に従わねばならない原則のことである。これに対して、もしこう望むのであれば、このようにしなければならぬ、というのが「仮言命題」である。仮言命題は一定の条件のもので成り立つものだが、定言命題は無条件に成り立つ。それは人間性の本質に根差したものだから、どんな場合においても絶対的に成り立つとされるのだ。

カントのこうした原理主義は、功利主義と鋭く対立する。じっさいこの書物の大部分は功利主義への批判にあてられているのである。功利主義は経験を基礎とし、幸福を基準とするが、カントによればそういったものは、道徳を根本的に基礎づけるものではない。道徳は先天的な原理によって基礎づけられるべきであって、経験やそれにともなう幸福などによって基礎付けられるべきものではない。カントといえども幸福を排除するわけではないが、幸福は道徳的行為の結果であって、幸福が道徳を基礎づけるわけではないのだ。

さてその道徳の原則としての定言命令は、「君の意思の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という形で提示される。また、次のようにも言われる。「全宇宙において人の欲しまた人の支配しうる一切のものは、単に手段として用いられる。ただ人間および彼とともに一切の理性的存在者は、目的そのものである・・・故にこの主体(人間)は決して単に手段として用いられるべきではなく、それ自身目的として用いられなければならない」(以上、波多野精一、宮本和吉訳)。前者は、個人的な幸福のためではなく、人類全体に通用する原理によって行為せよとう意味であり、後者は、人間にとって人間は目的そのものであって、決して手段として扱ってはならないという意味である。そういうことでカントは、自分の幸福のために他者を手段として用いることを肯定する功利主義を、反道徳的(=非人間的)なものとしてきびしく排斥するのである。




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