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死について:カントの人間学


カントは、「人間学」の中で、「いかなる人も死ぬことを自己自身について経験することはできない」(坂田徳男訳)といって、死について、あの有名なエピクロスの議論と同じようなことを主張している。エピクロスは、人間は生きている間は死んではいないのであり、したがって生きながらにして死ぬことを経験できない、また、死んでしまったあとではもはや生きてはいないのだからいかなる経験もできない、したがってやはり死を経験できない、と言った。

このように、死は人間にとって経験できるものではないのに、人間が死を恐れるのは、「死ぬことを恐れるのではなくて、モンテーニュが正当にも言っているように、死んでしまっている(すなわち、死の状態になっている)という考に対する恐怖なのである」。つまり人間は、死ぬこと自体は経験できないが、死んだ後のことは想像できる。その想像の中では、世界はもとどおり存在しつづけるのに、自分だけが存在しない。自分の存在しない世界とはどういうものか。それが具体的にイメージできないために、人間は死を本能的に恐れる、ということらしい。

そこで「わたしは存在しない」ということが問題になるが、そういう考えはそもそも成り立たないとカントは言う。カントによれば、「私は存在しないという考は全く実在しえない。けだし私が存在しないとすれば、これと同時に私の存在していないことが私に意識されることもまたありえないからである。なるほど『私は健康でない』などということはできる。また色々な述語を私自身について否定的に思惟することはできる(あらゆる言表にについてそうであるように)。しかし第一人称で語りながら主観そのものを否定することは、主観が自己そのものを破棄することであって一つの矛盾である」

カントはこのように言うことで何を主張したかったのか。エピクロスやモンテーニュの言っているように、人間が死ぬことは経験的な事実であるが、それを自分自身の問題として考える必要はない。何故なら人間は自分の死そのものは経験できないのであり、したがって自分の死について云々することはナンセンス以外のなにものでもないからだ。そういうナンセンスに心を奪われるのは、悧巧な人のすることではない。そう言いたかったのだろうか。

一方カントは「実践理性批判」の中で、霊魂の不死について語っている。カントの言う霊魂とは、人間の精神的な原理のようなものであり、それが不死だということは、人間は肉体的に死んでも精神的には死なないということを意味するのであろう。カントは霊魂を、実践理性の要請によって呼びだされた原理としており、あくまでも理念的な原理と考えていたので、それが実在するかどうかの議論には踏み込んでいない。それは、神についても同じである。神もまた、実践理性の要請として呼び出された原理=理念であって、あくまでも抽象的な理念にとどまり、実在性を云々することには意味がないと考えるのと同様である。

それにしても、霊魂が不死であるならば、人間は肉体的に死んでも精神的には生き続けるわけだから、そういう精神的なレベルにおいて死を経験できるのではないか。カントは、人間を理性的な存在としたうえで、その理性には純粋理性と実践理性があるとし、純粋理性によっては神や霊魂の不死は証明できないけれども、実践理性の要請の対象としては実在すると考えていた。ならば、その実践理性を活用して、死の体験をもっと生々しく語ってもよいのではないか。カントは霊魂の不死を主張する一方、その霊魂との交流を行う心霊術のようなものについては、両義的な感情をいだいていた。カントは、スウェーデンボルグの心霊術に大きな関心を寄せ、「視霊者の夢」という著作をあらわして、霊魂の働きについての推測を行ったのだが、霊魂の実在について決定的な判断を下すことができなかった。

カントはやはり人間の経験に基づいて思考していたのであり、経験を超脱することがらについては、それを理念として語ることはあっても、実在性を云々することはなかった。だから、霊魂の実在性を前提としなければ説明できないような死の経験については、積極的に発言することを控えたのだと思う。そこで死について語るときには、エピクロス以来の伝統になっている考えに戻らねばならなかった。それは死を恐れることはない、という主張に還元される。たしかに恐れる必要はないかもしれないが、死は確実にやってくる。ヒュームは、経験的な事実から普遍的な原理は抽出できないといって、これまで誰も死ななかった人間はいないという経験的な事実から、今後も死なない人間はいないと一義的にはいえないとしたわけだが、それはふつうの人間にとっては、気休め以上の意味は持たないであろう。人間が、したがって私自身が、死ぬ確率は限りなく高いのである。私が死を恐れるのは、それが確実に私にやってくると考えるからであり、その考えが私を焦燥させるのである。

カントの死についての議論は、純粋理性と実践理性との間で、揺らめいているように見える。理屈の上では死はなんら恐れるべきものではないが、感情的には恐れざるを得ない。それは人間に余計な構想力が備わっているからだが、その構想力のおかげで、人間の人間らしい生き方が可能になっているのである。ともあれ、死は万人にとってもっとも深刻なことがらであるから、哲学が、ましてや人間学が、それを避けるわけにはいかないのである。




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