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馬鹿と阿呆の差異:カントの人間学


日本語には人間の愚かさを表す言葉として、馬鹿、阿呆、間抜け、頓馬等々といったものがある。これらは人々が慣習的あるいは実用的に使っているもので、相互の間に明瞭な区別があるわけでもなく、いわんや哲学的に厳密な定義がなされているわけでもない。ところがドイツ人のカントは、こうした言葉に哲学的な考察を加えてみせた。カントはその著作「人間学」の中で、「認識能力に関する心の弱さ」について論じているのであるが、心の弱さとはある種の精神薄弱を意味しており、そうした精神薄弱の種類としていくつかのものをあげ、その中から「馬鹿」と「阿呆」をその典型として論じているのである。

カントによれば、「馬鹿とは、無価値な目的のために、価値のある目的を犠牲にする人のことである、例えば世俗的な盛名のために家庭の幸福を抛つ如きはすなわちそれである。馬鹿のくせに他人を侮辱的にするのは阿呆と呼ばれる」(坂田徳男訳)。つまり、馬鹿とはある人が自分自身を損なう行為についての概念であるのに対して、馬鹿とは、自分自身が馬鹿であることに加え、他人を侮辱してその怒りをかい、結果的に自分を窮屈な立場に追い込むような事態をさしているわけである。

馬鹿は、馬鹿な人間を馬鹿だというだけのことであるから、その言葉を使うことで大した波乱は起きない。「我々が或る人を馬鹿と呼んでも彼を侮辱したことにならない場合がある。それどころか彼自身自分は馬鹿であると告白することさえある」。一方他人を阿呆というのは波乱を招く行為である。「悪人の傀儡だとか阿呆だと呼ばれては、誰しもだまって聞いてはいられない」。なぜなら、その言葉に自分に対する侮辱を感じるからである。誰でも公然と侮辱されて立腹しないものはいない。

他人を侮辱するのは、高慢の仕業である。高慢とは、他人を自分と比較して、自分のほうが勝っておるとうぬぼれることであり、そのうぬぼれから他人を侮辱するのである。だから高慢は阿呆である、とカントは言う。高慢から他人を侮辱すれば、「彼らは私の意図を台無しにするような邪魔を私に仕掛けてやまないであろう。このようなことは嘲笑を招くばかりである」。かように阿呆とは、他者とのかかわりを含んでいる。それに対して馬鹿のほうは、他人とのかかわりを含まないで、ある人の特定の振舞いにかかわるだけの場合がほとんどである。その振舞いは主として物を対象としている。それも無価値なものをさも価値あることと取り違えることに主な原因をもつ。それゆえカントは、馬鹿と阿呆の差異を次のように表現するのだ。「総じて馬鹿は、かれが当然なすべきであるより以上に大なる価値を物に置き、阿呆はこれを自分自身に置くのである」

阿呆という言葉が災厄を招くのは、男に限ってのこととカントは考えていた。女性の場合には、男に向かって阿呆と言っても、怒りをかうことがほとんどない。というのも、「男子の方では婦人の空虚な自負のために侮辱をうけるようなことはありえないと思っているからである」。つまり男子は女性を舐めきっていて、女性の言うことは空虚な自負から発せられたものであり、したがってまともに相手にする価値はないと思っているからである、ということになる。

馬鹿ぶりが発揮される場面は色々あるが、カントがとくに取り上げているのは流行との関連である。カントによれば、流行は虚栄心に根ざしている。「流行は本来、趣味の事柄ではなくて(流行は極めて反趣味的なものでもありうるから)、優雅に振る舞おうとする単なる虚栄の事であり、またそれによって互いに他を凌ごうとする競争心の事である」。人には流行に敏感なものと鈍感あるいは無関心なものとがあるが、「流行はずれの馬鹿であるよりは流行にかなっている馬鹿であるほうが、たしかにましである」とカントは言っている。流行はずれでいることを一つの価値と見なすような者は、単なる馬鹿であることを超えて変人と言うべきだからである。

かようにカントは、馬鹿と阿呆の差異といった、一見どうでもよいようなことに、厳密な哲学的定義を与えようとするのである。それを通じてカントが心がけたのは、言葉が表現するところの概念を明確化することである。カントは、我々凡人が日常何気なく使っている言葉を厳密に定義し、そうすることで人間の世界認識を明証なものにしたいと考えたのだと思う。我々は、言葉の誤解によって不都合な事態に陥ることが多々ある。場合によってはこの誤解が大きな争いになることもある。小は隣人同士の喧嘩から大は国家間の戦争にいたるまで、そうした例は尽きない。その原因の大部分は、言葉をいい加減に使っていることだ。だから言葉を厳密に定義し、誤解のないコミュニケーションに心がければ、無用の争いが少なくなる。そういう思いからカントは、馬鹿と阿呆の差異といった、一見どうでもよいような事柄に拘ったわけであろう。

馬鹿と阿呆は精神薄弱の範疇であるが、精神薄弱と精神病との間には、質的な差異があるとカントは考えていたようである。精神病についてのカントの考察は、現代医学の立場から見れば児戯に等しいものと言わねばならぬだろう。カントによる精神病の大分類は、杞憂症(心気症)と精神障礙(躁狂)とに二分するというものだ。心気症とは今日いうところの神経症に相当し、 躁狂とはそれ以外の精神疾患ということになるが、そういう大雑把な分類では精神病理は適切に扱えない。

ところでカントは、高慢が高じると狂気になると言っている。「高慢について言えば、いうに足らぬ人間が、他人に向かって、自分にお辞儀をせよと要求したり、また他人に対して威張ってみせたりすることがすでに狂気を前提にしているのである。実際気ちがいでもなければこんな態度をとりはしないであろう」。こういうことでカントは、狂気ということばをかなり慣習的に使っている。何故高慢が狂気なのか、その理由を述べる代わりに、狂気であることを異様な高慢の理由にしているからである。そういう論点先取りのような言い方は、常識的な会話のなかでよく見られるところである。




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