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女性とユダヤ人:カントの人間学


カントは、その「人間学」において、女性と僧侶とユダヤ人について面白い比較を行っている。まず彼らの共通点に注目しているが、それは酒に酔うことがないということである。それは彼らが「市民的に弱いので、控えめを必要とするからである」(坂田徳男訳)とカントは説明している。じっさいこれらの人々の価値は、その人がどんな人かによるのではなく、他の人にどのように見られるかにかかっている。だからもともと弱くできている彼らは、他の人々によって控えめだと見られることが必要なのである。

しかし、控えめに振る舞うのは、いいことばかりでもない。たとえば酒の席で、非常にまじめ腐った顔をしていると、酔っ払いにとって愉快には思われない。そういう人間は忘れるということがなく、酒席の上でのことを、いつまでも覚えている。ヒュームも言っているように、「忘れることを知らない伴侶は不愉快なものだ。一日の愚行は他の日の愚行に席をあけるために忘却されねばならぬ」

以上は、女性と僧侶とユダヤ人に共通する性格を述べたものであるが、それらの相違点については、カントはあまり踏み込んだことを言っていない。あえて指摘すれば、女性は支配される立場であり、僧侶は支配する立場であり、ユダヤ人は支配・被支配を超えて金を儲けることにたけているということになろう。ユダヤ人のことはあとで触れることにして、とりあえず女性と僧侶を区別する支配・被支配ということについて取り上げてみたい。

カントは、人間の間に支配・被支配の関係が生じるのは自然なことだと考える。子どもが親に支配されるのはごく当然なことだが、それは子どもが未丁年であることに基づいている。未丁年であることは、自分で的確な判断ができないということである。それを親が代わって行う。それが親が子を支配しているということの意味である。世の中には、子どものほかにも未丁年というべきものがある。女性はいかなる年齢においても公民的に未丁年であると解釈される。女性のなかには、言いたい放題のことを言う者もおり、そのことから過丁年と呼ばれることもあるが、それは見掛け倒しのことであって、本来女性は未丁年なのである。したがって公民としての適切な判断ができない。彼女の配偶者が彼女にかわって判断する。それがひと目には支配・被支配の関係とうつる。

王と臣下の間にも支配・被支配の関係があるが、それが王の方が臣下よりも適切な判断ができるからであり、王が自ら国父と称するのは、臣下を幸福ならしめる法を臣下以上に心得ているからである。父と子の間の支配・被支配の関係が王と臣下の間にも指摘できるのである。

僧侶についていえば、俗人たちを厳格に、かついつまでも未丁年の状態に置こうとするものである。そうすれば、僧侶は俗人との間に、父と子の間におけるのと同様の関係を保つことができる。僧侶が尊敬されるようになるには、俗人が悧巧であっては不都合なのだ。

女性にもどれば、女性は自分が未丁年であることを自覚し、謙虚に振る舞わねばならない。ところが女性の中には、横柄なものもいる。そういう横柄な女性は、自分に資格のないことを他人に要求しているのである。それを高慢といえるとしたら、そういう女性は阿呆と呼ばれるに値する。

女性と男性との相違について、カントは「両性の性格」のところでも詳しく説明している。男女の性格の本質的な違いは、男は支配し、女は支配されるように出来ているということであるが、現実には、「女は支配しようとし、男は支配されようとする」。どういうわけでそうなるのか。女は独占欲が強く、また嫉妬深いからというのがカントの考えのようである。男は愛しているときに嫉妬深くなるが、女は愛していなくても嫉妬深い。男は自己に対して嗜好をもつが、女は自分自身をあらゆる男に対して嗜好の対象たらしめようとする。

だがこれは、本道からの逸脱であって、女は本来支配されるようにできているのである。だから、女に学識は必要ない。かりに学識をひけらかす女がいるとして、彼女らが書物を求めるとしても、それは「時計を必要とするようなものである。すなわち自分もこれを所持していることを人に見られたいためである。もっともその時計は止まっているか、或いは狂っているのが通例である」

かくカントの女性批判は露骨なものである。批判というより蔑視といってよいほどだ。そうした蔑視の姿勢は、ユダヤ人にも向けられる。カントはユダヤ人を、商業の民と見ていた。ユダヤ人は民族全体が商業の民なのである。しかして商業とは、カントにとっては、他の人間をもうけの手段としてみなす活動である。カントは商業活動から得られる利益を正当な報酬とはみなさず、人をだましてもうけることだと見ていた。そういう行為に民族全体として従事しているのであるから、ユダヤ人は欺瞞的な民族であるというのがカントの基本的なユダヤ人観である。

こうしたカントのユダヤ人観には、当然のことながら、大多数のユダヤ人が反発した。なかにはフッサールやハンナ・アーレントのように、カントを高く評価したものもいないではなかったが、ほとんどのユダヤ人は、カントに嫌悪感を示すか、あるいはせいぜい無視することで、カントとのかかわりを避けようとした。フッサールがカントを高く評価したのも、積極的な理由があったわけではなく、ドイツ人として哲学しようとすれば、カントから出発せざるをえなかったからだし、アーレントの場合も、ハイデガーとの間の恋愛関係が、カントへのかかわりに多少の影を投げかけていると考えられる。

以上、女性やユダヤ人をめぐるカントの議論を聞いていると、どうもそこに強烈な偏見を感じ取らざるを得ない。カントといえば、崇高な理念に拘ったという印象が強いのだが、こと女性とかユダヤ人といった世俗的な話題になると、同時代のドイツ人が持っていた偏見から自由にはなれなかったようである。もっともそのことで、カントを俗物呼ばわりするのは行き過ぎというべきであろう。




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