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共和制と民主主義をめぐるカントの議論


共和制と民主主義を混同してはならない、とカントは主張する。この両者は、とかく政治体制という曖昧な言葉で言及され、したがって同じ原理の上に立つものと誤解されやすいが、じつは異なった原理に基くのである。民主主義は、「最高の国家権力を有している人格の差別」に基く分類によるものである。これを「本来支配の形式」に基く分類という。この分類によれば、支配権を有するものがただ一人の場合(君主制)、互いに結合した複数の人の場合(貴族制)、市民社会を形成しているすべての人の場合(民主制)の三つの支配の形式があるということになる。

これに対して共和制は、「統治の形式」の一つである。統治の形式とは、「国家がその絶体権力を行使する仕方」に関するものである。それは具体的には、共和制と専制体制とに分けられる。共和制とは、執行権を立法権から分離する国家原理であり、専制体制とは、執行権と立法権とが分離されていない国家原理である。だから、専制体制は、三つの支配形式たる君主制、貴族制、民主制のいずれとも結びつく。

こうしたカントの分類の仕方は、政治権力の形態に関するアリストテレスの分類原理を意識したものだ。アリストテレスは、統治の形式を統治主体によって分類した。主体が一人の場合、多数の場合、すべての人々の場合の三つである。そしてその三つについて、よい統治と悪い統治に分類し、よい統治を、君主制、貴族制、立憲制と名付け、悪い統治を僭主制、少数政治、民主制と名付けた。アリストテレスのこの分類法を、カントはカントなりに再アレンジしたといえる。アリストテレスは、統治主体に基く三つの統治形式それぞれについて、よい統治と悪い統治に分けたのだが、カントは、アリストテレスの統治形式論を引き継ぎながら、それら三つの統治(支配)形式について、「よい悪い」という分類基準ではなく、共和制と専制政治という分類基準をもってくるわけである。

共和制(共和的体制)は三つの条件を満たさねばならない。第一に、社会の成員の(人間としての)自由の諸原理、第二に、すべての人間の唯一にして共同な立法への委嘱の諸原則、第三にすべての人間の平等の法則である。第一と第三はわかりやすいが、第二はちょっとわかりづらい。参政権のことを述べているのではなく、代議制のことを述べているようである。じっさいカントは、すべての人間の直接参加による立法を嫌悪している。立法は人民から委嘱を受けた代表者によってなされねばならぬというのである。そういう意味での立法権が執行権と分離されているあり方をカントは共和制の根本的な条件とするのである。

このように押さえたうえでカントは、共和体制こそが、「根源的契約の理念から生じ、その上に民族のあらゆる法的立法が基礎づけられる唯一の体制なのである」(「永遠平和のために」高坂正顕訳)と言っている。

カントはその共和制と、民主主義が必然的に結びつくとは考えていない。むしろその逆である。「本来の言葉の意味における民主政治は必然的に専制である」とまで言っている。その理由は、少数を無視した多数が全体を僭称するからだという。これは自由に対する矛盾だとカントは考えるのである。

だからといって、カントが民主主義一般に対して懐疑的だったというわけではない。民主主義体制が代議的なものであり、かつ、自由と平等を原理とするかぎり、それは望ましい統治体制と言えると考える。カントは、貴族制にはほとんど価値を認めていないが、君主制にはある程度の価値を認める。とりわけ、統治権と立法権を分離させ、代議制による立法を君主が尊重するという、いわゆる立憲君主制については肯定的である。カントが認めない君主制は、君主自ら立法を担うというような体制のことである。カントは代議的な立法に非常にこだわる。「代議的でないすべての統治形式は、本来歪曲せる形式なのである」と言っている。その理由は、「立法者が同じひとつの人格において、同時に彼の意志の実行者となり得るからである」という。

民主主義と共和制についてのカントの議論は、民主主義の本質を考えるうえで、非常に大きな手掛かりを与えてくれる。今日、民主主義は唯一あるべき統治形式と思われ、それ以外の統治形式はすべて欠陥があると主張される。民主主義さえ保証されていれば、その国家の成員は自由を謳歌し、平等に扱われると思われている。しかしそれが幻想にすぎないことは、次第にわかってきた。そうした幻想は、民主主義とカント的な意味での共和制とが無条件に結びつくことを前提にしている。だが、民主主義と共和制とは、それぞれ異なった原理に立つのであり、両者は必然的に結びつくわけではない。民主主義は、共和制と結びつくこともあれば、専制政治と結びつくことがある、とカントは言っているのだ。

カントのこうした主張を極端に誇張したのがカール・シュミットだ。シュミットは、民主主義は独裁と結びつくこともあると言った。シュミットの本意は、そういうことで独裁に一定の合理性を保証することであって、そこには非常に政治的な思惑が込められていたと思わざるをえないが、しかし、民主主義が場合によっては専制的な政治体制の呼び水になることは、ファシズムをはじめとしたポピュリズムの台頭によって立証された。ポピュリズムは、民主主義のシステムを利用して、少数によって全体を代表させ、場合によって自由を極端に抑圧する。それは、共和主義の理念がないがしろにされた結果であり、共和主義の理念を伴わない民主主義は、カントの言う専制政治に限りなく近づくのである。今日功利主義的な政治思想では、共和主義の理念は自由主義とはき違えられているが、自由の尊重は共和主義の一部にすぎない。自由に加えて、自律的な権力をもった代議制とそれの執行権との分離、及び国民の間の平等が加わってはじめて、十全な形での共和主義といえる。政治において大事なのは、民主主義を共和主義的理念の上に基礎づけるということである。




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