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啓蒙とは何か:カントの自由論


「啓蒙とは、人間が自己の未成年状態を脱却することである」(「啓蒙とは何か」篠田英雄訳)とカントは、啓蒙を定義して言っている。未成年状態とは、「他者の指導がなければ自己の悟性を使用しえない状態」をさしていう。つまり自立していない状態をいうわけである。他人に決定してもらえなければ、何も決定することができない。それに対して、なんでも自分で決定できる状態を「啓蒙されている」という。その啓蒙されている状態は、個人についてのみならず、国家や世界全体についても言える。国家や世界全体も、未成年の状態から青年の状態へと、進化する過程にある、というのがカントの啓蒙に関する基本的な考えである。

カントはなぜ、ことさらに啓蒙という概念を取り上げたのか。カントが「啓蒙とは何か」を書いたのは1784年のことであり、ぞの前年に「純粋理性批判」を書き上げていた。「純粋理性批判」は、人間の理性の能力を論じたもので、いわば人間の可能性に関する議論だ。啓蒙という概念には、人間の可能性という概念も含まれているから、「啓蒙とは何か」は「純粋理性批判」の応用編のようなものと考えることができる。一方、世界情勢に目を向ければ、アメリカ大陸では1776年に「独立宣言が」がなされ、フランスでは革命の機運が盛り上がりつつあった。ヴォルテールやルソーなどが中心になって、自由が啓蒙と進歩をもたらすと論じていた。そうした時代状況において、カントが「啓蒙とは何か」について本格的に考えようとしたことには、相応の理由があると言えよう。

ヴォルテールやルソーは「啓蒙主義者」と呼ばれてもいる。かれらがもっとも重視したのは自由である。自由が啓蒙を齎すと考えていた。カントもそれに同意する。「啓蒙を成就するに必要なものはまったく自由である」と強調しているくらいである。人間がなかなか未成年状態を脱することができないのは、一つには、「人びとの監督をお為ごかしに引き受けている例の後見人達のずるいはからい」にもよるが、なんといっても決定的なのは、人間本人が自己の自由を行使しないことに理由がある。自由を行使せず、したがって果敢に状況を切り開いていく努力をせずに、ひたすら怠惰と怯懦をむさぼっている。「この状態に愛着をすらもち、現在でも自己の悟性を使用することができずにいる」。それではいつまでも未成年のままだ。未成年を脱却して自立した人間となるためには、自由を適正に行使することが必要である。

ところでその自由をカントは、二つに分けて考える。「公的に使用する自由」と「私的に使用する自由」である。「ここに理性を公的に使用するというのは、或人が学者として、一般の読者全体の前で自分自身の理性を使用することをさしている。また理性の私的使用とは、公民として或る地位もしくは公職に任ぜられている人が、その立場において自分の理性を使用するということである」。これを今風に言い換えれば、組織人としての立場から発言することは理性の「私的使用」であり、そうした立場を離れて、一人の人間として発言することが理性の「公的使用」ということになる。こうした定義は、現代人の感覚とはずれているように聞こえるが、カントが言いたかったことは、人類全体にとっての普遍的な見地から発言することが理性の「公的使用」なのであって、なんらかの組織の立場から発言することは、たとえその組織が国家であっても、理性の「私的使用」に過ぎないと見るわけである。

こうしたカントの考えは、人間には、人類全体にとって普遍的な価値を理解する能力があり、また人間はそのように絶えず努力すべきだ、とする思想に根差している。それはやがて「実践理性批判」の中で展開される、人類共通の格率、すなわち「他者を手段としてのみではなく、目的としても扱え」という主張につながっていくのであるが、この小論の中では、もっぱら自由と関連付けて論じているのである。

カント自身は、人間による理性の公的な使用と、その結果としての啓蒙の成就に対してかなり楽観的である。それには、カントが生きていた、啓蒙の世紀と呼ばれるような時代の空気が大きく働いていたのだと思う。カントは、「現代は既に啓蒙せられた時代であるか」という質問に対して、「否、しかしおそらくは啓蒙の時代である」と答えている。その意味は、カントが生きている時代は、啓蒙に向かって突き進んでいるという了解を含むものであろう。実際カントは、同時代のプロイセン王フリードリヒ2世が、啓蒙の理念を体現していると考えていたのである。

カントの、人類全体にとっての普遍的な価値という考えは、世界公民という概念と結び付いた。世界公民とは、理念的な概念であって、まだ実現されてはいないが、やがて人類がそこにかならず到達するであろう世界に生きる人間をモデルにしている。そこに生きる人間は、単に自分がたまたま属する組織の立場からものを考え行動するのみならず、人類全体にとっての普遍的な基準に基いて考え行動するようになる、という考えがこの「世界公民」という概念には含まれている。

岩波文庫になっている「啓蒙とは何か」という本には、表題と同じ「啓蒙とは何か」という小論のほかに、「世界公民的見地における一般史考」という小論が収められている。その小論の中で、カントは、人間社会の歴史を自由の拡大の歴史として捉えたうえで、諸国家の並立にかわって、国際連合のような人類全体を包含した単一の組織が実現し、そこに生きる人々は世界公民としての立場から、人類全体にとっての普遍的な価値に基いて考え行動するようになるだろうと予言している。要するにカントは、人間には本来進歩する傾向が内在しており、その傾向が実現すれば、人類全体を包含するような国際的な組織が生まれ、そこに生きる人間は崇高な理念によって考え行動するようになるはずだと考えたのである。つまりカントにとって、自由は必然的に人間を駆り立て、自らを啓蒙するように促すはずなのである。そこに行き過ぎた理想主義を見る者もいれば、人間にとってのあるべき姿を提示したものとして積極的に評価する者もいるだろう。




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