知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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キルケゴールのヘーゲル批判


キルケゴールは、マルクスやニーチェ同様ヘーゲルを乗り越えることによって自分なりの思想を構築し、新しい時代の導き手の一人となった思想家である。マルクスは、ヘーゲルの思想の観念論的性格を問題にし、それがいわば頭で立っている状態を足で立たせることによって、つまり姿勢を逆にしてやることによって、観念論から唯物論への転化を図った。つまりマルクスは、ヘーゲルをひっくり返すことによって、自分の思想を構築したわけである。これに対してニーチェは、ヘーゲルに集約されるような西洋的な知の全体に対して異議を唱え、それがもはや意味のない念仏でしかないことを暴露した。彼の言う「神は死んだ」という言葉は、ヘーゲルに集約される西洋的な知がもはや意味を持たなくなったという事態を意味しているのである。

ではキルケゴールはどのようにヘーゲルを乗り越えたのだろうか。キルケゴールは同時代人のマルクスとは違って、ヘーゲルを正面から取り上げてこれを体系的に批判するというやり方を取っていないので、彼のヘーゲル批判を論ずるには、彼がさまざまな著作のさまざまな部分で、ちょっとした寄り道のように言及している既存思想への批判の文言を集めてきて、これを分析するという方法をとるほかはない。

そこで、キルケゴールのヘーゲル批判の特徴を簡単にいうと、既存の思想全体の体現者としてヘーゲルを批判するということになるのではないか。つまりキルケゴールは、ヘーゲルを批判することで、既存の思想全体を批判しているのではないか。

こう言ったのではあまりに漠然としているので、あえてこれをもう一段階ブレークダウンしてわかりやすく言うと、キルケゴールはヘーゲルの存在論を批判するとともに、ヘーゲルの体系の非人間性について告発したのではないか、そんなふうに言えるのではないか。

まずヘーゲルの存在論について。周知のようにヘーゲルは、存在と思考とを別のものとは考えなかった。それらが違って見えるのはたんなる見せかけ上の違いなのであって、実は同じ一つのもの、即ち絶対精神の現れなのであった。絶対精神が物的現象として現れればそれは所謂外的な自然となり、精神的現象として現れれば人間の思考、つまり精神世界となる。だから人間の認識活動において、対象と主観、客体と主体とが一致するのは当然のことである。対象世界は究極的には本質と言う形で捉えられるが、その本質と存在とは一致する。本質は精神活動がとらえるものであり、存在はそれとは別のものだと考えられてきたが、それは仮象に過ぎない。本質も存在も絶対精神の契機に過ぎないのであれば、一つの同じものがそれぞれ二つの別のものとして現れているのに過ぎない。ここから、本質と存在とは全く同じものなのである、という結論が導き出される。

これは、本質と存在とは別のものだとするカントの主張とは正反対の主張である。本質は我々人間の認識活動にかかわる概念であるのに対して、存在の方は我々の認識活動の外部にあって、しかもそれを触発するものであるが、その存在自体、カントはそれを物自体と言うのだが、その物自体を我々は直接捉えることはできない。我々がとらえることが出来るのは、我々の認識活動の相関者としての現象であり、存在そのものではない。これがカントの主張であったわけだが、キルケゴールはある意味、このカントの主張に立ち返って、ヘーゲルの観念論を批判するのである。

本質と存在とが同じものだとすると、どういうことが導き出されるか。まずいえるのは、神の実在性にリアルな根拠が与えられるということだろう。何故なら、本質と存在とが同じものだとすると、神の本質には存在の規定も含まれているわけだから、デカルトらが展開した神の存在論的証明に根拠を与えることとなる。神は全能である、全能の規定には存在するということも含まれている、全能でありながら存在しないことはありえないからだ、よって神は必然的に存在する。これが神の存在論的証明の概要だが、ここでいわれている必然性とは、あくまでも論理的な必然性である。それをヘーゲルは存在論的にも必然的であるとした。何故なら本質と存在とは同じものだからである。

神が実在性を持つ一方、人間の認識活動の方は本質性を持つようになる。何故なら本質と存在とは同じものであり、存在者である我々の存在のあり方は本質的なあり方であるに違いないからである。我々人間は絶対精神の現れなのであるから、我々のうちで本質と存在とが一致することには、少しの不思議もない、というわけである。

ここから更に、次のようなことが起こる。個々の人間というものは絶対精神が個別化して現れたものなのであるから、その本質は精神的な存在であることにある。ここまではキルケゴールも異存はないのだが、しかしヘーゲルにおいては、その精神的な存在が、ひとつのかけがえのない存在ではなく、存在という抽象的な概念の一つの例に過ぎなくなる。つまり個々の存在者である我々一人一人の人間は、あなたともちがうし、彼とも違う、私だけに特有の特殊な存在者なのではなく、存在者と言う一般的な概念の一つの例に貶められてしまうのだ。ここがキルケゴールには我慢がならなかった。一般的な概念のひとつの個別例としての人間? 抽象的な概念のひとつの具体例に過ぎない人間? そんなものは人間とはいえない。それはマス=大衆の一員としての個性を持たぬ人間であって、その人だけのかけがいのない個性を持った単独者としての人間ではない。そんな人間は人間とは言えない、とキルケゴールは言って、ヘーゲルを批判するわけである。

ここまでの記述から察せられるとおり、キルケゴールはヘーゲル哲学の非人間的な性格に反発した。その非人間性とは、人間をひとりひとりの実存している存在としてではなく、抽象的な概念に解消されてしまうようなものとして見る見方である。

だが実際に、そういう人間は存在している。個々の人間としての自覚を持たず、大勢の人間の一員であることに安住しているような人間。むしろそういう人間の方が、現代社会には充満している。これをキルケゴールは人間の「水平化」と呼んで深く軽蔑し、それに対置するに、個別的な存在者としての人間を構想したのである。

水平化の進んだ現代においては、人間であることがひそかに軽蔑される。この場合の人間であることとは、一人の個別的存在者として神に向き合えるような人間のあり方である。ところが現代社会では、人間は個別者として神に向き合い、そうすることでキリスト者になるのではなく、教会の一員として洗礼を受けることでキリスト者になれる、と考える。そのほうが楽であるし、世の中はそれでうまく動いていくものなのだ。なにをそれ以上のことを期待しようか、と言うわけである。

こうしたあり方を、キルケゴールは徹底的に批判する。そしてその批判の手はヘーゲル哲学に向けられる。何故ならヘーゲルこそが、人々に人間を軽蔑させるように仕組んだからである。ヘーゲルの狡知を取り除き、人々にもう一度人間を尊敬させるようにしなければならない。いや、だれもが一人の人間として神に向きあえるようにしなければならない。キルケゴールの生涯は、その理想の実現に向けられたといってよいが、果してそれが実現されたかどうかは別にして、そのようなキルケゴールの問題提起が、その後の哲学に強烈な影響を及ぼしたことは確実である。

さて、キルケゴールは自分の事実上の処女作に「あれかこれか」という題名をつけたが、これもまた、ヘーゲルへの当てこすりなのである。ヘーゲルの哲学は一言でいえば「あれもこれも」の哲学であった。本質と存在、客観と主観、対象と主体、意識と物自体、これらはみな違ったように見えるが、実は違っていない。それぞれが互いに媒介しあい、統一する過程の中から、絶対精神と言う絶対者が現れてくる。つまり「あれもこれも」最後には渾然一体と統一されるのである。ところがキルケゴールは、そうしたものを軽蔑する。「あれもこれも」ではなく、「あれかこれか」という選択をすることに人間の生きる意味がある。彼はそう考えたのである。


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