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哲学的断片:キルケゴールの宗教思想


「おそれとおののき」のなかでキルケゴールは、旧約聖書のアブラハムの物語を取りかかりとして、人が単独者として直接神の前に向き合うことの重要性を強調したのであったが、その時には、アブラハムが直接神に向き合い、自分の最愛の息子であるイサクを生贄に捧げろと言う神の命令を、大きな疑問もなく受け入れたのは、彼の神に対する信仰が然らしめたのである、と説明していた。しかし、ではアブラハムはその信仰を、どうやって身に着けたのか、については一言も述べてはいなかった。だが、これは極めて重大な疑問である。何故ならこの疑問が解消されない限り、アブラハムの行為が正当化される根拠が成り立たないだろうからである。もしかしたらアブラハムは、誤解によって自分の息子を殺そうとしたのかもしれない。もしそうだとすれば、アブラハムはただの殺人者だったということになるではないか。

この疑問、即ち人が神への信仰を獲得するのはどのようにしてなのか、それに答えるためにキルケゴールは、「哲学的断片」を書いた。この論文は、「哲学的」という形容詞を関しているが、その内容はすぐれて宗教的なのである。

さて、キルケゴールは人が信仰を獲得するプロセスを、いきなり宗教的な概念を用いて、つまり上から説明するのではなく、我々の日常生活を律している理性的な活動から、つまり下から説明しようとする。言い換えれば、理性的な活動の限界を超えたところに、超越的な世界としての宗教を見出そうとする方法を取るわけである。この場合、日常的・世俗的世界は内在的理性の対象とされ、彼岸的・宗教的世界は超越的宗教の世界とされる。そして、内在的理性の導き手としてはソクラテスが取り上げられ、超越的宗教の導き手としてはイエス・キリストが取り上げられる。したがって、ここでのキルケゴールの議論は、人はいかにしてソクラテス的な内在的理性の世界から、イエス・キリストの導く世界へと超越していくか、という問題を巡って展開されるわけである。それ故この論文はある意味、秀逸なソクラテス論ともなっている。

「真理はどこまで学ばれうるか。この問いから始めよう」(矢内原伊作訳、以下同じ)といって、キルケゴールはこの書物での問題意識を本文の冒頭で提出する。ここでいわれている真理とは、単に人間の認識にかかわることがらのみでなく、人間の生き方にかかわる問題をも含んでいることがやがて明らかにされるが、当面は人間の認識作用を中心とした精神的な領域における問題、つまり知識の問題と考えてよい。

ところでこの知識というものは、その性格が自明であるようにみえて、実はそう自明ではない、とキルケゴールはいう。何故なら、「人は既に知っていることを求めるということはありえないと同時に、全く知らないことを求めることもあり得ない」からである。というのも、「知っていることは、既に知っているのであるから今更それを求めるということはありえず、また知らないことは、何を求めるべきかも知らないのであるから、それを求めることもできないはずである。ソクラテスはこの困難を、あらゆる習得や探求は想起に他ならず、したがって無知者が必要とするのは、既に知っていることを思い出すための或る指示だけである、という考えによって解決した」

つまり、ソクラテスは、人間というものはもともと自分のうちにあるものを想起することができるだけで、それ以上のことはできないといっているわけである。ということは、逆に言えば、教師ができることは、弟子のなかにあるものを表に引っ張り出してくる、そのお手伝いをすることだということになる。その弟子がもともと持ってもいないものを、新たに付与することはできない。「人と人との間では"取り上げ"が最高の関係であって、"生むこと"は神に属することがら」なのである。

ソクラテスが、自分を産婆だといった理由がこれで明らかだと思うが、産婆が取り上げるようなもの、つまり相手がもともと持っているようなものをめぐる知性の働きの場を「内在的理性」と称する。

しかし内在的理性によってどれだけのことが明らかになるというのだろうか。周知のとおり、ソクラテスは自分が産婆役となることで、相手からある種の知識を引き出したわけだが、その知識とは、自分は何も知ってはいないということを知る事であった。つまり自分の無知に気づくこと、それが正しい知識なのである。ソクラテスにとっては、自分は何も知らないということを知っている、そのことだけでも素晴らしいことだったのだ。しかし自分が無知であることを知ることがすばらしいとは!しかも知識の内実がそれだけしかないとは!

そのような知識は本当の知識とは言えないし、まして真理ともいえない。無知であることを知ることで、いったいどれほどの真理を主張することが出来ようか? そうキルケゴールは問い直して、この世の中にはソクラテスの想起を超えた真理があるのではないか、と自問するわけなのである

たとえば神という観念。この観念は人間の中にもともと備わっていて、したがって教師の助けを借りて想起できるようなものだろうか。決してそうではない。ソクラテス自身が、自分の内部にデーモンがいることをしばしば主張していたが、それが神とはいっていなかったし、またとてもそうだとはいえない。神とは、内在的理性で捉えられるようなものではなく、外部から与えられるものなのである。それも神自身によって与えられるのでなければならない。与えるという言葉が不適切ならば、神自身がご自分の存在を人間に向かって啓示するのでなければならない。これを人間の立場から言えば、神は、内在的理性から超越的宗教へと飛躍することによって、初めて人間の前に啓示されるということになる。

神はこのように啓示される。それは人間の内部にあったのではなく、人間の外部から啓示されたのであるが、それも思考の対象としてではない。神は思考すべきものではなく信仰すべきものなのだ。

こうして我々は内在的理性から超越的宗教へと飛躍し、一人の単独者として神と直接に向き合うのである。しかしすべての人間がこのようにして飛躍しているわけではない。ほとんどの人間は、内在的理性の立場に留まったまま、神について、まるでそれが噂話のたねであるかのように、つまらぬおしゃべりをしているだけである。そういう人は、神を語りながら神を知らず、宗教を語りながらそこいらの猿芝居の噂話を語るように語っているのである。

なお、神を信仰できるためには、神が存在することについて堅固な確信がなければならぬが、それは神の存在を巡るあの伝統的な議論へと我々を連れていく。その議論をキルケゴールがどのように考えていたかについては、次稿で扱おうと思う。


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