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真理は主体性にあり:キルケゴールの真理論 |
真理は哲学にとっての大きなテーマのひとつであるが、哲学史上の主流(多数)意見においては、真理とは存在と認識との一致ととらえられてきた。存在とは対象世界のことであり、認識とは我々人間の主体的な作用である。その両者が一致するとは、主観的な認識作用が客観的な対象と一致するということである。したがって、この場合の真理とは、対象が"なにであるか"があきらかになることである。 こういう意味での真理を、キルケゴールは否定するわけではない。だがこれだけが真理のあり方ではない、真理には別のあり方もある、とキルケゴールはいう。その別のあり方を、キルケゴールは主体性の真理と言い、そこから真理は主体性にありといって、客観的な真理より重視するのである。 客観的な真理と主体的な真理の相違について、キルケゴールは次のように語っている。 「真理が客観的に問われる場合には、真理とは客観的内省が向かうひとつの対象であり、これにかかわるのは認識する者としての主観である。そこでは、かかわりかたいかんに内省が向けられるのではなくて、主観がかかわっている対象が真実であることに反省が集中する。もしも自分がかかわっている対象が真理ないし真実でありさえすれば、主観は真理のなかに吸収、包括されるのである。真理が主体的に問われる場合には、主体的内省が個体のかかわり方そのものに向かう。このかかわり方そのものが真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っているのである。よしんばそのかかわる対象が非真理であったとしえも、主体のかかわり方が真理に貫かれていさえすれば、個体は真理に立っているのだ」(白水社版著作集8、杉山好、小川圭治訳、以下同じ) 非常にわかりにくい言い方だが、客観的真理が対象の"なにであるか"を問題にするのに対して、主体的真理は、対象へとかかわるそのかかわり方のいかんにあるのだと言っているようである。このかかわり方が真理に貫かれていれば、対象がたとえ客観的な真理でなくとも、真理でありうる。逆説的に聞こえるが、それは通常の即物的な認識作用を想定しているからであり、たとえば対象を神だと考えれば、そんなに違和感はないはずだ、とキルケゴールはいう。上の文章に続いていっている次の文章から、そのようなニュアンスを感じとることができるのではないか。 「その実例として神認識の問題を取り上げてみよう。この場合客観的内省は、対象が真の神というところに向けられる。ところが主体的内省は、個体がある存在に対してかかわるそのかかわり方如何に注がれる」 客観的な認識作用は、対象である神の"なにであるか"を問題にする。神を客観的認識の対象とするのであるから、当然その認識は神の本質やら、その属性について、あれこれと客観的な言説を駆使して説明するということになる。ところでそんな説明では、神の存在と、神に対する我々人間のかかわり方については、何も明らかにはならない。このかかわり方のなかで重要なのは、なにに対してかかわるかではなく、いかにしてかかわるかが重要なのだ。 この"いかにして"は、主体のとる姿勢のことである。その姿勢が真理に貫かれていることこそが重要なのだ、とキルケゴールはいうわけなのである。 「客観性の道が強調するのは、なにが語られるかであるのに対して、主体性の真理は、その内容がいかなる仕方で語られるかを重視する」 こういわれてみると、主体性の真理が客観的な真理と違うものだとはなんとなくわかった気になるが、ではその真理がどのようなことがらを内実としているのかについては、いまひとつわからない。"いかなる仕方"といっているが、ではどんな仕方では悪くて、どんな仕方ならよいのか、見えてこないのである。 そこで、筆者なりにキルケゴールの意を忖度してみようと思う。 キルケゴールが主体の姿勢のあり方として念頭においているのは、無論実存的なあり方である。実存的なあり方とは、自分を含めてこの世界に生きる者が、固定した、決まりきったあり方をとっているのではなく、常に生成の途上にあるような動的なあり方をとっていることである。生成とは非存在から存在への、無から有への移行であった。そのような移行を常に生きている実存的な主体にとっては、永久不変の客観的真理などはあまり意味を持たない。もっと大きな意味を持つのは、絶えず生成する実存的主体にとって、その生成が意味をもつような、極めて個人的な事柄ではないのか。その極めて個人的な事柄は、客観的で普遍的な事柄では代替できない。それ故、真理にも、客観的な真理と主体的な真理とを区別して、我々一人一人の主体的実存者が、ヘーゲルのいうような類的存在としての人類の一範例になってしまわないように、気をつけねばならない。どうもそんな意味のことを、キルケゴールは言いたいのだろうか。 そうだとしても、キルケゴールが何故主体的真理といい、真理は主体性にありというのか、その意図がなかなかはっきりしないことに変りはないようだ。というのも、真理という概念は哲学史上に一定の位置を占め、その成立の背後に様々な事情を背負っていることから、我々は真理という言葉を聞くと、当然、その言葉によってあらわされる内実を想起するのであるが、その内実とは、主体の側よりも客体の側のほうにより多くコミットしているからだ。それ故、客体を除外して、主体だけの事情で真理を論じることに、なにか重大な意味があるのかとつい思ってしまうのである。 キルケゴールなら、それは偏見に毒されているからだと我々を責めるかもしれない。しかし、哲学というものは一定の偏見の上に成り立っているものである。その偏見を捨てよということは、哲学を思考することをやめよというに等しい。 もっともキルケゴールにとっては、哲学を思考することなど、何の意味をも持たないのだが。 |
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