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現代の批判:大衆社会論の先駆者としてのキルケゴール


今日「現代の批判」という題名で知られているキルケゴールの著作は、もともと「文学評論」と題した書評の一部として書かれたものである。その書評は匿名作家による小説「二つの時代」を対象としたものであったが、その小説が取り上げた二つの時代というのは、「革命の時代」と「現代」なのであった。原作者の意図はともかくとして、キルケゴールの受け止め方としては、革命の時代は本質的に情熱的であったのに対して、現代は情熱のない時代である。なぜそうなってしまったか、それをキルケゴールなりに考えたというのが、この書評の大まかな意義なのであった。

この書評が対象としていたのは、1846年のデンマーク社会だったわけだが、どういうわけか同時代人たちには、この書評はほとんど相手にされなかった。ところが1914年になって、ドイツ人のヘッカーが「文学評論」の一部をドイツ語に翻訳し、「現代の批判」と題して刊行するや、デンマークならぬドイツ国内から大きな反響があがった。ヤスパースはこの著作を、ほかならぬ20世紀の現代ドイツ社会を批判したものとして受け止め、「現代の精神的状況」をあらわしたし、ハイデッガーも大きな影響を受けた。そんな彼らにこの著作が影響を及ぼしたのは、現代社会に対する鋭い視点が盛り込まれていたからだといえるが、その視点とは、現代社会を、生き生きとした、つまり情熱に満ち溢れた社会ではなく、砂のように味気ない、個性を失った人々の寄り集まりとしてとらえる視点であった。そういう意味で、この著作は20世紀になって問題化した大衆社会論を先取りしたようなところがある。

キルケゴールにとって現代社会とは、「本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、つかの間の感激にぱっと燃え上っても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である」(「現代の批判」桝田啓三郎訳、以下同じ)

そこでは個人というものは意味を持たない。意味を持つのは抽象的な存在としての社会であり、個人はその社会の一員、しかも個性を持たない単なる数あわせのための存在であるに過ぎない。これはキルケゴールにとっては恐ろしいことだった。というのもそれは、主体的実存としての生き方とは正反対のものだからだ。いまや人々はかけがえのない単独者として神の前に向かうことをやめて、大勢の誰彼の一人として教会に行くに過ぎない。そんな生き方は人間の生き方ではない。

このように個人が個性を失ってしまう状態をキルケゴールは「水平化」と呼んだ。水平化を促進させるのは人々の妬みである。現代の人々は自分たちと異なった人間、それも卓越した人間の存在に我慢できない。一人でもそんな人間があらわれそうになると、束になって襲い掛かり、自分たちのレベルに押し下げてしまう。人間のあいだに個性だの相違だのというものがあるはずはない、人間はみな同じなのだ、というより同じであるべきなのだ。それが水平化の論理であり、それを進めているのが人々の妬みの感情というわけである。

水平化された人々がとるあり方は「公衆」である。「公衆は奇怪な無」である。それは非現実的な諸個人から成り立っている。非現実的と言うのはほかでもない、個人というものは本来現実的な顔を持ったものであるはずなのが、公衆を構成する諸個人にはそのような顔がない、かれはノッペラボウなのである。それ故非現実的といわれるわけである。公衆とはそのような非現実的な諸個人から構成された現実的な存在である。何故なら公衆は時代に対して現実的な影響を及ぼすからである。

そのような公衆を生み出すのに、新聞は大いに貢献している。というのも、「新聞という抽象物は、時代の情熱喪失症及び反省病と結託して、あの抽象物の幻影を、水平化の張本である公衆を、生み出すのである」

公衆はおしゃべりが好きである。おしゃべりとは、「黙することと語ることとの間の情熱的な選言を排除することである。ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほうとうに行動することが出来る」。ところがおしゃべりは、黙することを知らずに、とめどもなくしゃべり続ける。ありとあらゆることがらをおしゃべりの材料にして、ひっきりなしにしゃべり続ける。おしゃべりは沈黙の瞬間を恐れる。

ついでキルケゴールは、おしゃべりに夢中になる公衆の特性をいくつか列挙する。無定見、浅薄さ、浮気、屁理屈、無名性といったものだ。なかでも無名性は、公衆のもっとも本質的な特性である。公衆は「無名で書くばかりか、署名までして無名で書く」のであるが、それは水平化された諸個人にとって、個性の表現としての名前が意味を持たないからにほかならない。

公衆は名前を持たないほどであるから、ましてや意見など持たない。意見なら新聞がかわって書いてくれる。彼らは新聞の書きたてる意見を時代の精神であると受け止め、それに心酔するふりをすることで、自分が水平化された公衆の一員であることを、他人に対しても、自分に対しても、証明してみせるのである。

このように、キルケゴールの同時代人への批判には厳しいものがある。その同時代人がわずか二年後には、ヨーロッパ規模で革命運動を巻き起こし、時代に対して強烈な意見表明をしたことは周知のとおりである。そうした状況を前に、マルクスは「共産党宣言」を書いて、労働者階級が自分自身の意見をもつことの必然性を主張したわけだが、キルケゴールの目には、そんな動きは大した意味を持たなかった。彼にとって本質的なことは、階級としての、したがって類的存在としての人間ではなく、あくまでも主体的な実存を生きる個別的存在者としての人間だったからである。


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