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大佐に手紙は来ない:ガルシア=マルケスを読む


「大佐に手紙は来ない」は、ガルシア=マルケスの最初の本格的な小説である。そんなに長くはないので、長編小説とまではいえない。中編というべきだろう。だから、入り組んだ筋書きにはなっていない。筋らしいのものはほとんどないに等しい。コロンビアの港町で手紙が来るのをひたすら待ち続ける男の話である。男はもと軍人であって、大佐として活躍していたので、いまでも人々から大佐と呼ばれている。その大佐が待っている手紙とは、軍人恩給の決定通知書だ。貧乏なうえに息子を失ったばかりの大佐は、いまや七十五歳にもなって、妻と二人で貧乏生活を送っている。ただ一つの望みは、軍人恩給をもらって気楽に生きることだ。しかし、その軍人恩給の決定通知書がなかなか来ない。大佐には軍人恩給の受給資格があり、そのことは当局も認めているのだから、かならず決定通知書が来るはずだ。それを信じて大佐は、毎週金曜日に町にやって来る郵便物を確認するために、郵便物を運んでくる船が着岸する港まで出かけていくのだ。じっさい大佐は、この小説が続いているかぎり、その郵便物を待ち続けるのだが、それはついにやってこないのだ。「大佐に手紙は来ない」というタイトルは、そんな事情を手短に表現したものなのである。

手紙が来ない理由は、役所の怠慢ということになっている。しょっちゅう役人が移動するので、まともに仕事をするような体制になっていない。資格があっても、役人が仕事をさぼっていれば、年金の受給手続きが始まるわけはない。そういう、どうしようもない事情を、大佐の妻は理解していて、もらえそうもないものに望みをつなぐのではなく、もっとましなやり方があるだろうと夫をなじるのだが、大佐は、自分には受給資格があるのだから、かならずもらえると言ってきかない。妻はあきれて、待っている間に死んでしまっては意味がない、死んだあとでもらったって使い道がないからね、と夫を諭すのだが、大佐はそんな意見に耳を貸さないのだ。

妻は妥協案を出す。代理人の弁護士をかえて、成功報酬制にしたら、弁護士もすこしはまともに働くだろうというのだ。そこで大佐は弁護士をかえる。だが弁護士は否定的な見通しをしている。この国では、役人がまともに働くことを期待できないから、おそらくいつになってもあんたの年金の手続きはとられないだろう、と言うのだ。とにかく、役人の異動が激しい。「いいですか、これまでに大統領は七人です。そしてどの大統領も最低十回は内閣を改造し、各大臣は部下を少なくとも百回はかえているんです」という。つまりすべての役人は、職に就いたかと思うとクビを切られる。そんな状態でまともに仕事をしようと思えるわけがない。役人に仕事をするよう期待する方がおかしい、というわけである。

そんなわけで大佐は、来るあてもない手紙をひたすら待ち続けるのだ。しかし手紙を待ち続ける大佐の気持ちだけでは小説は成り立たないから、いくつか周縁的なエピソードがはさまれる。大佐は軍鶏を大事にしているのだが、その軍鶏は死んだ息子が闘鶏に出すつもりでいた。息子が死んだので、大佐は息子にかわって自分が軍鶏を闘鶏に出してやろうと考えている。軍鶏は結構食欲があり、エサ代も馬鹿にならない。そこで妻は軍鶏を売って生活費に充てようと言うのだが、大佐は頑としてきかない。一時的に気が弱くなって、軍鶏を売ることも考えたが、やはり思いとどまる。

息子が死んだのは、政争に巻き込まれたからだということになっている。コロンビアは政情が不安で、いつもどこかで内戦が起きている。大佐の息子もその内戦にかかわりあったおかげで敵側に殺されたらしいのである。大佐自身も若い頃はリベラル派に属して保守派と戦っていたらしい。その際大佐は、アウレリアーノ・ブエンディーア率いる部隊に属し、マコンド地域の会計責任者を務めていたということになっている。アウレリアーノ・ブエンディーア大佐も、マコンドという架空の町も、「百年の孤独」に出てくるものだ。ということは、ガルシア=マルケスは、「大佐に手紙は来ない」を意識しながら「百年の孤独」を書いたということだろう。

じっさいガルシア=マルケスは、自分は「大佐に手紙は来ない」を非常に気に入っていて、多くの人々に読んでもらいたいと考えており、この小説の宣伝のために「百年の孤独」を書いたのだと言っている。もっとも「百年の孤独」の中では、この小説の主人公である大佐は出てこない。アウレリアーノ・ブエンディーアには大勢の有能な部下がいたが、その中にこの小説の主人公たる大佐も含まれているのだろう。

夫が日々の生活に無関心なのに妻はさすがにあきれはてる。「あなたはおもいやりのない人ね」といい、「あたしが死にそうなのをわかってくれてもよかったはずよ。だってあたしのは病気じゃなくて末期の苦しみなんだから」と言って嘆く。そして、「言ってちょうだい、あたしたちはなにを食べればいいの?」と。それに対して大佐は、いままで生きてきた七十五年の歳月にかけて、「糞でも食うさ」と応えるのである。

糞を食うためには、糞をひりださねばならない。それには糞のもととなる食料を腹の中におさめねばならない。腹の中におさまるべき食料がなければ、糞を食うこともままなるまい。それほどコロンビアで生きることはむつかしいということか。どうもこの小説は、コロンビア社会の途方もない現実を皮肉たっぷりに料理して見せているように思える。




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