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エレンディラ:ガルシア=マルケスの短編小説集


ガルシア=マルケスの短編小説集「エレンディラ」は、「百年の孤独」と「族長たちの秋」の合間に書かれた。「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」以下七篇の短編小説からなっている。「無垢なエレンディラ」は比較的長く、中編小説といってもよいほどだが、その他はみな短い。どれもガルシア=マルケスらしい意外性に満ちた作品である。

冒頭の「大きな翼のある、ひどく年取った男」以外は、何らかの形で死が描かれている。冒頭の小説にしても、大きな翼のある天使のような男をモチーフにしており、その男は最後には人間の視界から消え去っていくので、人間的な基準からすれば死んだといえなくもない。天使は不死ということになっている建前上、死んだことになっていないだけのことだ。

二本目の「失われた時の海」は、断崖に面しているおかげで墓を作る余地もない村が舞台。そこに住んでいる女が、生きたまま土中に埋葬してほしいと願うのだが、結局は死後海に放り込まれる。埋葬する場所がないので、その村では死者を海に放り込んでいるのだ。放り込まれた女は、死後大きな魚となって世界中の海を遊泳し、再び村を訪ねるというような幻想的な話だ。

三本目の「この世でいちばん美しい水死人」は、やはり断崖の村を舞台に、そこに打ち上げられた水死人の話。その水死人があまりにも美しかったので、村中の女たちが夢中になるというような他愛ない内容だ。

四本目の「愛の彼方の変わることなき死」は、死を運命づけられていた上院議員の男が、死ぬ前に美しい娘を抱きたいと思ったが、その娘には父親によって鉄の貞操帯が施されていたので、望みを達しえなかったという話だ。彼は悶々としながら死ななければならなかったのである。

五本目の「幽霊船の最後の航海」は、タイトルにあるとおり、幽霊船の話である。

六本目の「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は、タイトルとは真逆の悪人ブラカマンを主人公にした小説である。ブラカマンは、どんな毒にも解熱作用があるといういかがわしい薬を行商して歩いていたのだが、その商売のやり方は、「国会議員顔負けの巧妙な手口で人々をたぶらかしていた」というものだった。だが、かれは自分自身をもたぶらかし、そのことがもとで、墓の中に埋められてしまうのだ。もしも墓の中で生き返ったら、再び殺してやるといきがる男の傍らで。

最後は、小説のタイトルともなった「 無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」。これは無情な祖母が孫娘を商売道具に使ってあくどく金もうけするという話。つまりこの祖母は孫娘に客をとらせるのだ。なぜ、そんなことをするかといえば、孫娘が過失から出火して家を焼失させてしまったので、その穴埋めとして、孫娘に金を稼がせようというのである。孫娘はそんな祖母の言うことにおとなしく従い、いやな顔をせずにせっせと客をとっていたのだが、そのうち、客の一人であった青年がこの娘に惚れ、祖母を殺して娘と結婚しようとする。青年が祖母を殺すことに成功すると、娘は青年と一緒になるのではなく、砂漠の彼方に消え去ってしまうのだ。この小説の不気味なところは、殺人を躊躇する青年を娘エレンディラがぞっとするような冷たい目で罵るところだ。彼女は青年に向かって、「あんたは満足に人も殺せないのね」と言うのだ。あたかも人殺しが、ウサギや豚を殺すことと大した変わりはないと言っているかのようだ。

こんな具合で、全編に死の匂いを漂わせた作品集である。ガルシア=マルケスがなぜここまで死にこだわったか。俄かにはわからぬが、死のモチーフは「百年の孤独」の中でも繰り返し取り上げられていたし、また「族長たちの秋」でも、死は親しみのあるテーマだった。要するにガルシア=マルケスの文学世界は、死と非常に親和性が高いということなのであろう。彼は二つの長編の執筆に挟まれた時期に、死を正面から取り上げることによって、死に関する自分の感性に磨きをかけようと試みたのではないか。




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