知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学プロフィール 掲示板




予告された殺人の記録:ガルシア=マルケスの推理小説


「予告された殺人の記録」は、ガルシア=マルケスに特有のおとぎ話的な意外さはない。別の意味の意外さはある。それは事実そのものに潜む意外さだ。この小説のテーマは、妹が侮辱されたと信じ込んだ双子の兄弟が、妹を侮辱したと彼らが思いこんでいるある男に復讐することなのだが、その男が妹を侮辱したという明確な証拠がない。侮辱というのは、その男が妹の処女を奪ったということなのだが、かりにそれが事実だったとしても、なぜ処女を奪うことで殺されなければならないのか、その理由が薄弱なのだ。

小説の舞台は、ガルシア=マルケスの他のいくつかの作品とおなじく、かれの故郷があるコロンビア北東部の半島あたりにある村に設定されている。その村に住んでいる人々は、狭い世界ということもあって、濃密な関係を結んでいる。その濃蜜な空間で、殺人事件が起こる。その殺人事件はあらかじめ犯人の兄弟たちによって予告されており、村のほとんどの人たちはその予告を知っていたのだが、なぜか何者にも妨げられることなく、殺人は行われる。その際に、殺される者は自分がなぜ殺されなければならないか、理由に心当たりがないということになっている。彼が殺されねばならなかったとされる、犯人たちの妹の処女を奪ったということについて、明白な証拠はまったくないのである。だからかれは、冤罪で殺された可能性が強いと伝わってくる。だからといって、なんということもない。かれが犯人たちに殺意を抱かせたことだけでも、殺されるに値するというようなメッセージが伝わってくるのである。

そこには、殺された男サンティアゴ・ナサールがアラブ人の移民だったという事情が働いていると思わされるような書き方になっている。村の人々は、ナサールが殺されたことにショックを受けたとはいえ、それが許されない犯罪とは考えていない。一方殺した兄弟のほうはスペイン人で、取り調べのために三年間留置所に拘置されたが、無罪になって釈放される。なぜかれらが無罪になったか。それについては何も言及されていない。彼らがナサールを殺したのは天下周知の事実なのに、その罪を問われないというのは、そこに何らかのバイアスがからんでいたとしか思えない。そのバイアスを通じて、コロンビア社会の矛盾のようなものが浮かび上がってくるようである。

小説は、ある語り手が、事件から三十年近くたって、その全貌を明らかにしようとするさまを語るという形で展開している。その語り手は、殺されたナサールとは顔なじみであったし、殺したビカリオ兄弟とは家族同様の付き合いをしていた。その彼がなぜ、事件から三十年近くもたってその全貌の解明に乗り出す気になったか。それは触れられていない。かれは、事件に関係があるとみられる人物たちに片っ端からインタビューし、また、検察官の調書を探し出して検分する。その調書は洪水のために水をかぶり、半分ほどが欠落したありさまだったが、文字は何とか読めた。その文字面からはしかし、事件の動機や背景など詳しいことはほとんどわからなかった。

そんな状態の中で語り手は、さまざまな人々の証言をもとに事実関係を復元しながら、事件の全貌に迫ろうとする。語り手の目的は、事件の動機の解明と、事件の全貌を復元することである。事件の全貌についてはかなり詳細に復元できた。なにしろビカリオ兄弟がナサールをナサールの家の前で待ち伏せし、豚用の屠殺ナイフで殺したことは天下周知の事実だったわけだし、そのビカリオ兄弟がナサールを殺そうと思ったのは、妹がナサールによって処女を奪われたと思い込んでいたことも周知のことだった。だから、殺人事件としては非常に単純なケースだったわけだ。それが30年もたってからその全貌を解明したくなるというのは、どういうことか。語り手は明確には言っていない。おそらくこの殺人は村の人々によって支持されていたのであろう。ビカリオ兄弟は、家の名誉を守るためにナサールを殺すのだと言っていたし、その言い分を村の人は、間違ったこととは受け取らなかった。むしろかれらが自分たちの家の名誉を守ったことに感心しているのである。

ところで、ビカリオ兄弟が妹の名誉を傷つけられたと思ったのは、妹の結婚相手であるバヤルド・サン・ロマンが、初夜に彼女が生娘でないことを知って、実家に送り返したためだった。コロンビアの風習では、男は生娘と結婚する権利があるとされているようである。だから処女を失っている女は、花嫁として拒絶できるのである。普通の文明人の感覚では、強姦でもないかぎり、女が処女を失うのは女の自由な行為であり、したがって女自身が責任をもつべきだとされるが、この小説の世界では、処女を失った女には責任はなく、それを失わせた相手の男に責任があるとされる。この場合の責任とは、おそらくその女と結婚することだと思うのだが、ナサールにはほかに許嫁がいたし、女のアンヘラにもナサールに固執するところは見られなかった。そんなアンヘラがなぜ、自分の処女を奪ったのはナサールだと主張したのか、その理由は最後まで明らかにされない。

小説の語り方は、さまざまな人物に証言させ、その証言を組み立てることで事件の全貌を浮かび上がらせることにある。その試みはそれなりに成功する。証言の交差の中から、読者は事件の全貌に限りなく近づくのだ。たったひとつわからないのは、殺人の動機である。しかもビカリオ兄弟は、怒りに駆られて激情的にナサールを殺したというより、行きがかり上仕方なく行ったというふうに伝わってくる。かれらは、他の人から復讐をとめてもらうことを密かに期待していたようなのだ。行きがかり上というのは、この地域の人間に特有な名誉の感覚に発していいるのだろう。妹が侮辱されたら、その復讐をするのが兄たちの義務だ、そう思い込んでいたからビカリオ兄弟はナサールを殺さねばならない仕儀に陥ったのだと思う。その場合に不可解なのは、ナサール自身に身に覚えがないということだった。もしナサールがアンヘラの処女喪失にかかわっていないとすれば、ビカリオ兄弟は無実の人を殺したということになる。しかもその殺し方は残酷きわまりなかった。兄弟はナサールに襲い掛かり、豚用の屠殺ナイフで、かれをめった切りにしたのだ。ナサールは息が絶えるまで、なぜ自分がこのような目に合わねばならないのか、納得がいかなかったのである。

こんな具合に、かなり異常な事態を、この小説は描いているわけだ。異常な事態を描いているにかかわらず、まるで日常ありふれた出来事のように淡々と語られていく。しかし語ることによって、語り手が何を期待しているのか、それがわからない。殺されたナサールの名誉回復というわけでもないし、殺した兄弟への責任追及ということでもない。また、事件のそもそもの端緒をつくったアンヘラも、この事件については、何も語ろうとしない。要するに、事件は確かに起きたが、なぜ、またどのような背景のもとで、事件が起きたのかについては謎のままに残されるのである。実にわかりにくい小説である。そのわかりにくさが、ものごとに単純な始末をつけたがらないガルシア=マルケスの傾向を物語ってもいるようである。そうした傾向は、推理小説の体裁をとっているこの小説のような場合には、厚みと深みをもたらすのではないか。




HOME世界の文学 ラテンアメリカ文学次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである