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グアテマラ伝説集:アストゥリアスの幻想文学


ラテンアメリカ文学は、魔術的リアリズムとか幻想文学といった呼ばれ方をされる。その呼ばれ方を通じてラテンアメリカ文学は、ある種の親類関係によって結ばれた強固な文学共同体のような観を呈している。その共同体を形成した始祖的人物というべきものが、M・A・アストゥリアスである。彼が1930年に発表した「グアテマラ伝説集」は、八篇の短文と一篇の脚本から構成されているのだが、いづれも魔術とか幻想を想起させる不思議な雰囲気の作品ばかりである。従来の文学の伝統から著しく逸脱していたので、面食らう読者が多かったのだが、20世紀最大の知性とされたポール・ヴァレリーが絶賛したこともあり、たちまち世界的な評判を呼んだ。後にアストゥリアスがノーベル文学賞を獲得するのは、この作品の成功に負うところが大きい。

この作品を読んだ印象をヴァレリーは次のように語っている。「これらの物語=夢=詩ほどわたしに妖異に思われる~わたしの精神に、思いがけないものを感じ取るわたしの能力に、いかにも妖異に思われるという意味ですが~ものはまたとありませんでした。ここには、複合的な文化様式を持つ民族の、あらゆる時代にわたる信仰、伝説が、常に力強く痙攣している大地のありとある濃密な産物と、見事に融合しています・・・この読書はわたしにとって濾過紙のようなものでした。というのは、この本は読まれたというよりは、飲まれたからです」。ヴァレリーの驚きがよく伝わってくる。ヴァレリーといえば、どんなに思いがけないものでも受け入れる能力の持ち主だ。そのヴァレリーが、読んだのではなく飲んだのだというほど、この作品の衝撃力が強かったということだ。

この作品は後にマジックリアリズムの手本といわれるようになったが、一読してわかるとおり、マジックの要素は豊富にあるが、リアリズムとは縁がないというべきである。リアリズムとは現実のことをあるがままに描くことだとすれば、ここで描かれているのは、現実の世界ではなく、夢のような幻想の世界である。その幻想の世界をアストゥリアスは、グアテマラの原住民の伝説とか言い伝えから受容したらしいが、その伝説自体が夢のように現実を遊離したものなのだ。だから、この作品集は、グアテマラの伝説を収集したという形をとりながら、夢のような作り話の集まりにしか見えない。そこにヴァレリーは強い共感を感じたということらしいが、小生も含めて凡庸な能力しか持ち合わせない人間にとっては、どう読んだらいいのかとまどうばかりである。じっさい、この伝説集を読んで、何か意味のあることを受容したというものがあれば、それはかなり変わった人といわねばなるまい。

アストゥリアスがグアテマラの伝説を集めて紹介しようと考えたのは、彼の出自によるようだ。彼の父親は白人だが、母親はグアテマラのインディオである。その母親を通じて、アストゥリアスは自分がマヤ文明とつながっていると意識したのではないか。その意識がかれにグアテマラの伝説を素材にした作品を書かせたのだろう。この作品は、八つの小文と一つの脚本からなっているが、八つの小文はいずれもグアテマラの伝説と深いかかわりがある。八つのうち五つはグアテマラに伝わる伝説という体裁であり、それに序文的な二つの文章が先行し、グアテマラの創造神話ともいうべきものが後続する。これら小文に続いて収められた比較的長い脚本も、グアテマラの太陽伝説に素材をとっているようである。グアテマラの伝説に無知な読者にとって、これらの作品群が、実際にグアテマラの伝説をそのまま紹介したものなのか、それともアストゥリアスが自由に創造したものなのか、判断がつかない。というのも、その文体があまりにも常軌を逸しており、普通の人間の理解力を超えるからである。その文体は、伝説の語り口というよりは、シュルリアリズムを思わせるものである。

そこでアストゥリアスとシュルリアリズムの関係が問題になるが、アストゥリアスにはヨーロッパ体験があり、その体験の中でフランスやスペインのシュルリアリズムを貪欲に摂取した経緯がある。その時にアストゥリアスなりに獲得したシュルリアリズムの文体が、この作品の中で花開いたといえるようである。だからこの作品集は、グアテマラの伝説をシュルリアリズムの手法を通じて表現したということになる。そんなわけで、世情流通しているマジックリアリズムという言葉はこの作品にはふさわしくない。この作品にあえてレッテルを貼ろうとすれば、シュルリアルな伝説集とするべきだろう。

伝説集本体に先立つ二つの文章は、どちらもグアテマラ賛歌というべきもので、その賛歌を独特なリズムをもった散文詩のようなスタイルで語っている。その語り方はかなり妙である。たとえばつぎのようなものだ。「惑溺の夜。樹々の梢で狼の心が歌っている。ある男神が、次々に花の処女を犯してゆく。風の舌が刺草を舐めまわしている。枝葉の茂みが踊っている。星もなく、空も道もない。巴旦杏の愛の下で、泥が女の匂いを発している」(牛島信明訳)。この一連の文章を、なにか意味のあるイメージに結び付けるためには、相当の想像力を必要とするだろう。

だいたいこんな調子の文体で、伝説類が語られていく。火山の伝説、長角獣の伝説、刺青女の伝説、大帽子男の伝説、花咲く地の財宝の伝説といった具合だ。その後に、「春風の妖術師たち」という文章が続くが、これはグアテマラの創造神話のようなものである。その創造神話を踏まえた形で、「ククルカン羽毛に覆われた蛇」と題された脚本が来るが、これは太陽と闇の相克といった、いかにも太古の神話らしいことがらをテーマにしている。

こうした伝説を組み合わせたこの作品集の構成ぶりをヴァレリーは次のように要約している。「熱帯の自然、珍しい植物、土着の魔術、サラマンカの神学がおりなすこの混淆は、なんという混淆でしょう。ここでは『火山』、修道士、『罌粟男』、『無価の宝物の商人』、『日曜日のおしゃべり女たちの群』、『村に行って機織りと零の値を数える魔術師たち』などが、このうえなく蠱惑的な夢をつくり出しています」。この簡潔な要約を通じて、読者はこの作品集がいなかるものか、およその見当をつけられる。作品本体を読むよりもむしろ、作品についての理解を深められるといってよいほどだ。

なお、脚本「ククルカン」は、芝居の脚本として成功しているとは言い難い。これをもとに舞台を演出して、そこからなにか意味のあるメッセージを発することができるかどうか、かなり懐疑的にならざるを得ない。だから読者はこれを脚本としてよりは、対話の形をとった散文詩として読んだほうがよい。




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