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パスカルの球体と無限:ボルヘス「続審問」


ボルヘスは、パスカルの球体についての「パンセ」の中の言葉に異常に拘っている。それは、「至るところに中心があり、どこにも周縁がないような、無限の球体」という言葉なのだが、たしかに無限の球体であるならば、どこにも周縁は見つからないだろうし、したがって中心も定まらず、いたるところにあるということになる。しかし、そんなものが意味を持つというのか。意味をもつとしたら、どんな意味だというのか。そうボルヘスは疑問を持って、パスカルのこの言葉に異常なこだわりをもつらしいのである。

この言葉は、パスカルがはじめて吐いたわけではなく、彼以前にさまざまな人々が言っていたとして、ボルヘスはいくつかその例をあげる。錬金術の大家として知られるトリスメギストスは、「神は可知的球体であって、その中心はいたるところにあり、その周辺はどこにもない」と言っている。ラブレーの「パンタグリュエル」最終章には、「われわれが神と呼ぶ、どこにも中心があり、どこにも周辺がないあの知的な球体」とある。また、ルネサンス人ジョルダーノ・ブルーノは、「宇宙はすべてが中心である。あるいは宇宙の中心はいたるところにあり周辺はどこにもない、とわれわれは確信をもって言うことができる」と言っている。かれらの間には思想的なつながりはないようだから、こうした考えはごく自然なものと言わねばならない。不自然なものを、多くの人々がそれぞれ無関係に思いつくことはありそうもないからだ。

このような言葉が繰り返し表明されてきたのは、空間を無限と見る考えが、人間の間に遍在してきたからである。たしかに人間は空間を無限のものと考えやすい傾向をもっている。空間が有限だとしたら、どこかに周縁がなければならない。しかしそれは空間の定義に反する。空間とは事物の容れ物であって、どんなものでも包含するというのがその本質である。もしもその容れ物が有限であったなら、空間の名に値しないだろ。

一方で人間は、空間を球体のイメージでとらえてきた。それは自分の住んでいる場所を基準に空間を考えるからである。空間は自分を中心にして同心円状に広がっている、と考えるのはごく自然なことだ。その球体が無限だとしたら、それは周辺をもたず、いたるところに中心があるというふうにイメージされるだろう。だからパスカルの球体をめぐる発言は、人間の常識的な考えに根差したものといえる。決して突飛な発言ではないのである。

空間を無限であり、したがって無間に分割もできるという考えを逆手に取って、エレアのゼノンがあの有名なパラドックスを提起したことはよく知られている。このパラドックスについては、ベルグソンが、運動の分割不可能性を根拠に批判しているが、ボルヘスは、そもそも空間は無間に分割できるようなものではないということを理由に、無限な空間という概念そのものを排斥する。といって、空間が有限だとは言っていない。空間を無間と考えると、いろいろな不都合が起きると言っているだけである。

ボルヘスはまた、時間の無限性についても疑問を投げつけている。時間の無限性の根拠としてよく引き合いにだされるのは、無限後退という考えだが、これについてボルヘスは、それは神を説明するための苦しまぎれの言い訳だといって、認めていない。無限後退というのは、ものごとを因果関係として考えることに基づいている。何事にも原因があるとしたら、その原因は無限の過去にまでさかのぼることになる、という理屈だ。普通は、それでは都合が悪いから、すべての原因の更に原因を作ったものとして神を持ちだすわけだが、神を持ちださない限り、無限後退には果てがない、つまり無限から逃れられないということになる。それはおかしい、とボルヘスは考えるわけだ。おかしいとは言うが、それを根拠に時間の有限性を証明するわけでもない。

とはいえボルヘスは、「新時間否認論」という、ボルヘスとしては異例に長いエッセーを書いている。文字通り時間を否認することをテーマにした文章だ。このエッセーは、ダニエル・フォン・ツェプコの次のような警句の引用から始まっている。
  わたしの前に時間はなかった わたしの後にもない
  わたしと共に彼女は生まれ わたしと共に死ぬだろう

この警句が語っているのは、客観的な実在としての時間は存在しない。時間はわたしという主観の相関者だ、ということだ。わたしを離れては時間はない。わたしというそのものが、時間なのである。空間も同様である。わたしを離れた空間というものはない。空間は私が生みだすところのものだ。

これは、バークリーの唯心論に近い考えである。じっさいボルヘスは、バークリーの唯心論に強い共感を抱いているようである。ボルヘスはショーペンハウアーに強く影響されたのだが、ショーペンハウアーも世界を「意思と表象」として捉えることで、バークリーの唯心論との親縁性を感じさせる。

つまるところ、時間と空間という形で表象される世界とは、わたしを離れては意味をもたない、とボルヘスは考えるから、時間や空間の無限性という考えに拒絶反応を示すのであろう。ボルヘスは、自分自身よりほかには、なにも拠り所にするものを持たなかった。わたしこそ、世界の生みの親なのだと考えることは、ある意味非常に愉快なことである。ボルヘスは、単に自分のいない世界を考えることがナンセンスだと思っただけでなく、世界とはそもそも自分が生み出したものであり、したがって自分自身なのだと考えたかったようである。




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