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失われた足跡:カルペンティエールのマジック・リアリズム小説


ラテンアメリカ文学の顕著な特性としてのマジック・リアリズムを、最初に体現した作家はアストゥリアスとされるが、それを自分の創作方法として意識的に追求したのがアレホ・カルペンティエールである。カルペンティエールは、ラテン・アメリカでは、現実に起きていることが、西欧的な感覚ではマジックのように見えるので、それをそのまま描けばマジック・リアリズムになると考えた。そうしたマジカルな現実をカルペンティエールは「驚異的現実」と呼んでいる。

カルペンティエールのそうした驚異的現実をテーマにしたマジック・リアリズムの小説としては、ハイチの逃亡奴隷を描いた「この世の王国」と、ジャングルの中にいまも営まれているインディオの「原始的」な生活を描いた「失われた足跡」がある。特に「失われた足跡」は、過去・現在・未来といった西欧的な時間感覚が意味をなさない、人間のもっとも根源的な時間性をテーマにしている。その時間性は、無時間を本質としている、という逆説によって言い表される。そうした逆説的な言い方は、「未来の思い出」といった言葉でも言い表される。

この小説は文明化された人間が、南米のジャングルの中で、西欧的な文明とは全く無縁な生き方をしている「原始人」たちと出合ったときに、どういう反応をするか、について考察したものである。考察というと、小説ではなく専門的な研究のように聞えるが、これはあくまでも小説である。ただその小説の中で、主人公が発する言葉が、哲学的な響きをたてるので、単なる独白というには物足りず、考察という言葉を使いたくなるのである。

舞台設定は、おそらくニューヨークと思われる大都市で音楽の専門家を自負していた男が、ふとした因縁で、南米のジャングルの奥地に旅をすることになる。その旅自体、文明化された世界から、半文明の世界を経て、ついに文明とは全く縁のない世界へと入り込んでいくということになっている。主人公は、その非文明的なものに対して、一方では文明人としての優越感を持つとともに、そうした文明にいったいどんな意味があるのかという懐疑にもとらわれる。いったい文明というものが、人間にとってどれほどの意味を持つのか、文明とは、人間にとっては余剰であって、かならずしも必要不可欠ものではない。かえって人間本来の生き方に逆らっているのではないか。

主人公がそのように思うのは、いずれにせよかれが文明人だからだ。その証拠にかれは、突然とらわれた創造意欲を世間に向かって発出したいという情念にとらわれる。普段はなかなか得られない音楽的なインスピレーションが湧いてきて、壮大な楽想が浮かんでくるのである。その楽想を実現して、広く社会の人々に認めてもらいたい。そういういかにも文明人的な欲望が強まるのだ。そこで、一旦文明社会に戻るのであるが、それはかれにとって二度と原始社会へ復活できないことを意味した。かれが頭の中に記憶していた、その非文明社会への扉につながる足跡が消えてなくなっていたのだ。

要するにこの小説は、文明人からする非文明の観察である。その観察には、非文明人への共感があったり、西洋文明への懐疑があったりするが、基本的には、文明人の立場に立った非文明の観察なのである。しかも主人公を非文明に強く結びつけているのは、非文明を象徴する女ロサリオなのである。かれが、再び非文明をめざす最大の理由は、その女と結びつきたいという欲望だったのだ。

小説の中の主人公は、カルペンチィエールの分身と考えてよい。カルペンティエールは、フランス人の父親とロシア人の母親を持ち、フランスで生まれた。幼少期に両親とともにキューバに移り住んだというが、基本はヨーロッパ人である。そのヨーロッパ人としての立場から、キューバ社会を見続け、やがてラテン・アメリカについてのステロタイプを身に着けていったものと思える。そのステロタイプは、南米の原始社会を好奇の眼で見るというものだろう。そういう視線は、ボルヘスも強く感じさせ、ある意味、ラテン・アメリカの白人作家に共通したものといえる。だがカルペンティエールは、ボルヘスなどと比べれば、インディオに対して好意的に振る舞っているように見える。少なくともボルヘスのように、インディオを人間としてではなく、犬のように見ることはない。

この小説は、カルペンティエールの実体験に基づいているところが多いという。カルペンティエールは、オリノコ川の源流に遡ったことがあり、その際に、半文明あるいは非文明的なインディオの生活に接した。そのインディオの「原始的」な生活は、西洋的なそれとの正反対であったが、しかし全く否定されるべきものではなかった。逆である。インディオの生き方は、人間としての根源的なあり方を忠実に実現したものだ。自然を受け入れ、自然に融合しながら、自らを自然の一部として、要するに自然と一体化した生き方をしている。そこには余分なものもないし、また、自分以外のものの都合に自分をあわせるということもない。誰もが自分自身の主人公として振る舞っている。それは、カルペンティエールにとっては素晴らしいものに思えた。その感動をカルペンティエールは、この小説の中に織り込んだのではないか。

この小説を評して「時間を遡る旅」だとか、文明と非文明を隔てる空間はわずかの距離に過ぎないのに、そのわずかの距離が時間的には数万年の飛躍を意味しているというような言い方がなされているが、この小説は、別に時間にこだわっているわけではない。時間という概念は、基本的には文明の産物だ。それは人間を社会の都合にあわせるために発明されたものである。この小説に出てくるインディオたちは、自分をそれに合わせるべき外在的圧力を感じない。だから時間というものに拘束されるいわれはないのである。




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