知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ジョン・ロックの経験主義哲学


ジョン・ロック John Locke (1632-1704) は、近代以降の西洋の学問を特徴付けている経験科学的な方法を、哲学の上に組織的に適用した最初の思想家だといえる。その意味で彼は経験主義哲学の創始者といってよい。ロック以降あらゆる観念を経験にもとづかせ、帰納的方法を用いて、漸次に高度の真理に迫ろうとする哲学の流れが強まり、それまで支配的であった観念論的で、したがって先験的な哲学と並んで大きな潮流となった。

大陸の伝統的な哲学は、デカルト以降のそれも含めて、世界を究極の存在根拠から出発して、下降的・演繹的に説明しようとする傾向を持っていた。この究極の存在根拠は実体と呼ばれたから、それは実体についての学とも、あるいは形而上学とも呼ばれた。

なぜ形而上学という言葉が使われたか。アリストテレスが使い始めたこの言葉は、当初は著作の配列上での形式的な意味しか持っていなかったが、やがては個々の物質的なものを超えた普遍的な存在を扱う学という意味で使われるようになった。普遍的な存在は観念として現れるから、それは精神的なものであり、かつまた永遠のものであるといった存在性格を持たされるようになる。こうして絶対者となった普遍的存在には実体という言葉が当てられ、あらゆるものがそこから淵源するところの究極の存在だということになった。それは物質世界を超越しているから、形而上学という言葉は、それについての学にぴったり合う言葉となったのだ。

形而上学が扱う概念や真理といったものは、個々の人間の経験や意識とは独立して存在する客観的なものである。人間がそうした概念を操作できるのは、それらが生得的に付与されているからだ。人間にこのような能力を付与したものは、やはり実体であり、それは神と同義の存在者だった。

ロックはこうした考え方を根底からひっくり返した。

彼はまず、人間には生得の概念や原理が備わっているという考えを退ける。彼の主著「人間悟性論」はこのことを実証することから始まっているのである。人間は生まれたときにはいかなる概念も原理も備えていない。もし備えているのなら、生まれた直後からそれらの概念を操れるはずだ。知的障害を持った人々の中にも複雑な概念を操れないものがいるが、これも生得説では説明できない。

ロックは、人間がそのような概念や原理を獲得するのは経験によってなのだといい、次のように主張する。

「・・・知識は究極的に経験の中から自らを導き出す。第二巻、第一章、第二節」

ロックは次に普遍的概念の実在性について否定する。伝統的な哲学では、究極の普遍者としての実体には存在の性格が付与されていた。つまり実在するから実体なのであり、そこから存在性格を除去したら、実体の定義に含まれる完全性ということが成り立たないわけだ。ロックは、この議論はトートロジーに等しい無意味なものと感じたのだろう。我々は別に完全な存在者としての実体なるものなどなくても、支障なく生きていける。だからこんなものにこだわる必要はない。第一、我々が普遍的な概念だとしているものは、我々から独立した客観的な存在なのではなく、言葉の一種であるに過ぎない。この点で彼は唯名論を徹底的に推し進めている。

ロックはまた、世界を演繹的方法のみによって説明しようとする態度をしりぞける。演繹的方法とは論理学上は三段論法の形で表されるが、ロックはその有用性を認めながらも、人間の知識には三段論法で導き出されるものばかりではなく、個々の経験を通じて帰納的推論によってもたらされるものもあると主張した。むしろ新しい発見とはそういった新たな経験によって導かれるのだ。

こうしたロックの立場は、我々現代人の眼から見ると、至極当然のことを言っているように写る。だがロックの時代にあっては、実体とか生得観念とか演繹的推論による世界のトータルな把握とか、そんな考え方がいまだに大勢を占めていたのである。

ロックは経験を重んじ、それに根ざしながら一歩ずつ着実に進むという方法を意識的に追求した。そうした姿勢はいきおい、人間の知性=理性の見方を変えることにつながった。

ロックは理性という言葉で次のふたつのことを意味させている。ひとつはわれわれが確実に知り得ることがらについての探求であり、もうひとつは蓋然性を持っているだけで確実な証拠はないが、実際上受け入れたほうが有益であるような知識の探求である。

確実に知り得るとは、たとえば数学の命題のように演繹的な推論がなじむ領域の知識であるが、これだけですべての知の領域がカバーされるわけではない。

蓋然的な知識とは、確実とはいえないまでも、我々の経験に合致しており、また他人の証言とも一致する、そのような知識である。ところが我々が生きている世界では、こうした知識こそが有益なのであり、我々の生活を向上させる原動力ともなっている。

理性をこのように捕らえることで、ロックは人間の知識が、小さいことの積み重ねからなり、その結果大きな発見にもつながることを強調する。人間が世界の存在を一気にしかも完璧に捉えることができるなどと思うのは妄想に過ぎない。それは人間の着実な進歩を妨げるだけだ。人間の進歩とはあくまでも経験の拡大によるのでなければならない。これがロックの一貫した立場だった。


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