知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ジョン・ロックの倫理思想


ジョン・ロックの倫理思想は快楽と欲望に立脚している点で、ベンサムの功利主義思想を先取りしている。ロックによれば、快楽を増進し苦痛を減退させるものが善である。だから我々人間は快楽が最大になるように欲望する。そして快楽が最大になった状態を幸福と感ずるのだ。

極めて単純明快な理屈だ。だが快楽の追求が人間にとって必然だとしても、個々の人間が自分勝手に快楽を追求したら、全体としての社会はどうなるだろうか。相互の利害が衝突して、泥沼の争いが生じはしないか。ホッブスはこのような懸念にもとづいて、自然状態の人間は相互に争いあい、互いが互いにとって狼になるといったではなかったか。

これに対してロックは次のように答える。なるほど短期的に見れば、個々人の利害が衝突する可能性はないとはいえないが、長期的に見れば個人の利害と全体の利害とは一致する。なぜなら全体としての社会には神の摂理のようなものが働いており、それが道徳律として人間の行為を律しているからだ。我々は目先の短期的利害に駆られて不道徳な行為をすることもあるが、その結果は死後に地獄に落とされることによって購わされる。だから人間は長期的な展望のなかでは、有徳な行為に向かって進むようにできているのだと。

このようにロックは、公私の調和を神の仲介をもちだすことによって基礎付けようとした。ロックの宗教的なスタンスがのぞいている場面だ。

社会に働いている自然的な傾向を神の恩恵に帰するというロックのこの考えは、その後の思想史の中で次第に排されていったが、公私の利害が一致するという考えは、今日まで根強く支持されている。特に経済活動の分野についてはそういうことがいえる。自由主義的な考えを持つ経済学者は、レッセフェールによって個々の経済活動を自由にさせることが、結果として全体の幸福につながると考えているが、それはロックの思想に負うところが多い。

それでもロックは、人間はかならずしも、常に合理的な計算にもとづいて行動するとはかぎらず、その結果反社会的でしたがって反道徳的な行為が生じうるという事態も認めざるを得ない。それはロックによれば、遠い将来の快楽よりも近い将来の快楽を優先しがちな人間の性向に根ざしている。

したがってロックの倫理思想の焦点は、いかにすれば公私の利害が一致し、調和の取れた社会が実現できるかという点にしぼられる。

先述したように、公私の利害が一致するのは長期的な視点に立った場合であるから、個々人も長期的な観点に立って行動しなければならないことになる。そのためには快楽とそこからもたらされる幸福の質をよく考え、目先の欲望に惑わされないことが必要だ。つまり人々には慎重さというものが求められるのである。

この考えがピューリタンの心性によく似ていることは、容易に見て取れるだろう。ピューリタンにとっては勤勉で慎重な生き方が規範となっていた。そこから資本主義の発展に適合した行動様式が育っていったことは、マックス・ウェーバーが指摘したとおりだ。


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