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共産主義についてのマルクスのイメージ:経済学・哲学草稿


人間の人間からの疎外は、疎外された労働にその根拠を持ち、疎外された労働は私有財産に根拠をもっていた。だから人間の開放を実現するためには、私有財産を止揚しなければならない、というのがマルクスの考えだった。私有財産の止揚は何をもたらすか。共産主義だというのが、マルクスのとりあえずの主張だ。その理由は、マルクスによれば、共産主義は社会的な共同所有を意味する限りで、私的な個人的所有の否定だからだ。

マルクスのこの考えには無理はないか。資本主義的生産関係においては、たしかに私的所有が普遍的になる。労働者の労働さえ、商品として私的に所有されると観念されるのである。それを止揚、あるいは否定するという事態はしたがって、所有を個人的なことがらにさせないということを意味するが、それがストレートに共産主義につながるかについては、疑問の余地がある。所有には、個人的な所有と全面的な社会的所有のほかにも別の様式があるのではないか。私的な所有は、(労働を含めて)すべての財が個々人によって分散所有されることであり、共産主義的共有はすべての財が社会全体によって一括的に所有されることであるが、このほかに、財の一部が社会的に所有され、残余の部分が個人的に所有されるという場合もありうるだろうし、また、そもそも私的所有を前提としながら、それが人間の疎外をもたらさない方法がないかどうかを考える余地があるかもしれない。だがマルクスは、私的所有は止揚されねばならぬと主張し、私的所有の止揚は共産主義をもたらすと考えるのである。

その共産主義についてであるが、マルクスはすくなくともこの段階(経済学・哲学草稿の段階)では、あまり明確なイメージをもっていなかったようである。それはマルクスが、共産主義についての議論を女性の共有についてのエピソードから始めていることからもわかる。マルクスはどうも、人間の歴史における原始共産主義の存在を信じていたようで、その原始共産主義の特徴を、婚姻関係においては群婚に見ていた。群婚というのは、男女がそれぞれ特定の異性とのみでなく、複数の異性と結びつく婚姻の形態であるが、わかりやすくいえば、男による女の共有だとマルクスはいう。そしてそれを「粗野な共産主義」と呼んで、資本主義的生産関係のあとに来るべき社会像には相応しくないと言っている。

では相応しいものとしての共産主義とはどのようなものか。そこがどうも曖昧なのである。マルクスは、「人間の自己疎外としての私有財産の積極的止揚としての共産主義、それゆえにまた人間による人間のための人間的本質の現実的獲得としての共産主義。それゆえに、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、またいままでの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義。この共産主義は完成した自然主義として=人間主義であり、完成した人間主義として=自然主義である。それは人間と自然とのあいだの、また人間と人間とのあいだの抗争の真実の解決であり、現実的存在と本質との、対象化と自己確認との、自由と必然との、個と類とのあいだの争いの真の解決法である」と言っているのだが、これらの言葉の羅列はスローガン的なものを感じさせ、内実についてのイメージを具体的に示すものではない。それゆえ、「歴史の全運動は、共産主義を現実的に生み出す行為である」と言われても、ピンとこないところがある。

つまりマルクスは共産主義をとりあえず私的所有の否定として捉えており、私的所有の否定的な側面を羅列しながら、その否定としての共産主義を語ることで、否定の否定としての弁証法的議論を通じて、共産主義のイメージが具体化すると考えているように見える。マルクスは否定の否定という概念をヘーゲルから学んだわけだが、それによって現実の運動が説明できたと考えていたのではないか。

共産主義についてマルクスが提示するイメージで唯一積極的なのは、共産主義においては、人間の個人的生活と類的生活とが一致するということである。これは要するに、共産主義社会においては、人間が人間らしく生きられるということを言っているわけだ。人間が人間らしく生きるとは、人間がほかの人間を手段とすることなく、かえって人間の活動がほかの人間にとって意義のあるようなものになることを意味している。そうなるわけは、人間とは本来社会的な存在であり、他の人間の存在を前提としているからである。その場合に、他の人間を自分の手段としてではなく、ともに人間として高めあうようになることこそ、望ましい姿だとするマルクスの信念が、ここには働いていると言える。

マルクスには、望ましい人間とは自由で自律した人間だとする信念があった。マルクスは言う、「ある存在が自分の足で立つようになるやいなや、それははじめて自律的なものとみなされる。そしてそれが自分の現存を自分自身に負うようになるやいなや、はじめて自分の足で立つようになる。他人の恩恵によって生活している人間は、自分を従属的な存在だと認める」。私的所有はそうした従属的な人間を生みだし、またそうした人間によって生産されるような社会をもたらす。私的所有の止揚としての共産主義は、そうしたあり方から人間を解放し、真に自立した人間を生み出す社会である。そうマルクスは確信を込めて主張するわけであるが、先にも言ったように、その主張は多分にスローガン的であり、具体的な内実を伴なっているようには見えない。

実際マルクス自身、「共産主義は近い将来の必然的な形態」であると言いながら、その共産主義は「人間的発展の到達目標ではない」とも言っているのだ。マルクスがそういうわけはおそらく、共産主義の具体的なイメージを積極的に発信できないことへのもどかしさみたいな気持ちに根差しているのではないか。



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