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マルクスのヘーゲル弁証法批判:経済学・哲学草稿


マルクスはヘーゲル哲学特に弁証法の研究を通じて自分自身の思想を発展させていった。その場合によりどころとなったのがフォイエルバッハだ。フォイエルバッハはヘーゲル左派に属していたが、他のメンバーに比較して格別な意味をマルクスはフォイエルバッハに見出した。それはヘーゲルの哲学がもつ思弁的・観念的な性質を打破して、マルクスがいうところの唯物論的なものへと転換させたことだ。ヘーゲルの人間は単なる精神の現われであり、したがって頭で立っていたといえる。それをフォイエルバッハは、足で立たせたというのである。

マルクスの人間観が、どれほどフォイエルバッハの影響を受けているか、それを確かめるには、マルクスが人間について持ち出す規定性を見ればわかる。マルクスは人間を、「自然存在」であり、しかも「生きている自然存在」として、「自然的諸力を、生命諸力をそなえており、一つの活動的な自然存在である」と言い、また「肉体的で自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在である」(城塚登外訳岩波文庫版、以下同じ)と言っているが、人間のこうした捉え方は、フォイエルバッハを通じて獲得したものであろう。ヘーゲルによる人間の捉え方は、人間を自己意識に還元するものであったが、フォイエルバッハは人間を肉体的な自然存在として捉え直したわけである。それをマルクスも受け継いだということであろう。

もっともマルクスがフォイエルバッハを評価するのはここまでで、人間をトータルにとらえるには、人間を単に自然的存在とするだけでは、不十分だという。人間はそんなに単純なものではない、というわけである。その複雑な人間像をトータルにとらえるためには、ヘーゲルの弁証法がもっている積極的な部分が役に立つ、そうマルクスは言って、ヘーゲル哲学を、自分の都合のよいように換骨堕胎するのである。

マルクスがヘーゲルを高く評価するのは、ヘーゲル弁証法のもっているダイナミックな側面である。ヘーゲルは人間をダイナミックに自己形成する生き物だと捉えた。その自己形成の過程で労働の持つ意味を正しく把握していた。人間は労働を通じて自分を生産するのだとヘーゲルは言っている。それに対してフォイエルバッハの人間は、そうしたダイナミズムを持ち合わせていない。それはすでに完成されて普遍の本質をまとった静的な存在である。いわばイデアのようなものとして人間が捉えられている。フォイエルバッハの人間は、肉体を持った自然的な存在ではあるが、その肉体は歴史を持たない、抽象的な存在にとどまっている。だから本物の人間に近づくためには、人間の生き方のダイナミックな側面に目を向けねばならない、というのがマルクスの考えだったのである。

マルクスによるヘーゲル哲学の換骨堕胎は、弁証法を自己意識の運動としてではなく、肉体を持った自然的存在としての人間の現実の運動として捉え直すことからなる。マルクスは、弁証法の本質的特徴を疎外=外化の概念に求めているが、ヘーゲルにおいては、疎外とは精神の運動である。ヘーゲルは精神から出発して、精神の疎外態として自然を捉え、その疎外からの回復、すなわち否定の否定として弁証法の運動を捉えるわけだが、その運動はすべて精神内部の出来事に過ぎない。マルクスはその運動を、人間も含めた自然全体の動きとして把握しなおすのである。

そうした立場にたてば、疎外は全く違ったふうに見えて来る。マルクスにとっての疎外とは、人間が本来のあり方から疎外されることを意味する。だから疎外からの人間性の回復は、人間が本来の姿を取り戻すということになる。マルクスはその本来のあり方を類的存在という言葉で呼ぶ。類的とは、人間の普遍的な規定性をさしていう言葉である。人間の本質と言ってもよい。人間の本質はかくかくしかじかのもので、その本質から逸脱している状態を疎外と呼ぶ、というのがマルクスの立場である。だから疎外はマルクスにとって否定的な概念なのである。それに対してヘーゲルの疎外は積極的な面を持っている。それはたしかに、否定あるいは止揚されるべきものであるかぎりは否定的であるが、しかし精神の疎外態が自然になるというかぎりでは、積極的な内容を伴なっているのである。精神の疎外=外化の運動がなければ、この世界は成立しようがないからである。

否定の否定は弁証法の重要な成果であるが、それによって存在が基礎づけられるわけではないとマルクスは考える。ヘーゲルの場合、否定の否定は、精神の疎外による否定態としての自然が、もういちど否定されることによって、精神に再び包括されるプロセスを言う。そのことによって、この世界は、人間の自己意識のなかで精神と自然とが統合され、そこから世界が全体として成立してくるのだとイメージされている。このようにまわりくどい説明になるのは、ヘーゲルの弁証法が人間の自己意識のプロセスになっているからだ。人間の自己意識が世界を生みだすのである。この場合の自己意識は、絶対精神と融合した形の自己意識であるのだが。

マルクスはこの世界を、自己意識の内部における否定の否定として成立するようなものとしては捉えていない。マルクスは否定の否定を絶対的な肯定だとは考えない。絶対的な肯定とは、否定の否定ではなく、「自分自身のうえにやすらぎ、積極的に自分自身を根拠とする」ようなものである。つまり絶対的な意味で肯定的でなければならない、と考えるわけだ。この考えもマルクスは、フォイエルバッハから学んだと言っている。

マルクスがヘーゲル弁証法の真の貢献として挙げるのは、否定の否定ではなく、労働を人間の本質として捉えたことだ。人間はすでに完成されたものとして生まれてくるわけではなく、たえず自分自身を自己形成してゆく生き物である。その自己形成にとって、労働が決定的な重要性を持つ。人間は労働を通じてたえず自分自身を生産しているのである。それを発見したヘーゲルは偉大だが、ヘーゲルは「労働の肯定的な側面を見るだけで、その否定的な側面を見ない」。労働の否定的な側面とは、マルクスが「疎外された労働」という言葉でさすものである。ヘーゲルにとっての労働は、人間が人間として自己形成をするための媒介項だが、マルクスの疎外された労働は、人間が類的存在から疎外されることを意味する限りで否定的なものである。

ヘーゲルにとっては、「疎外された労働」ということはありえない。ヘーゲルは「労働を人間の自己産出行為として捉え、疎遠な本質としての自己に対するふるまいを、一つの疎遠な本質としての人間の活動を、生成しつつある類的意識および類的生命として捉えている」。ヘーゲルにおいては、個人と類的存在としての人類全体とは、究極的には和解しているのであって、そこにマルクスが言うような意味での疎外が入りこむ余地はない。それはヘーゲルの目が、資本主義的生産関係の持つ矛盾を見ていないからだと、マルクスは言うはずなのである。



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