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マルクス・エンゲルスの社会主義批判


マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」の中で社会主義理論の批判を行っている。社会主義理論には様々な形態があると彼らは言い、それらを分類しているのであるが、分類の基準は階級である。没落しつつある階級(貴族階級など)の社会主義は反動的な社会主義であり、勃興の過程にあるブルジョワの社会主義は保守的社会主義であり、中産階級の社会主義は空想的社会主義である。それらに対してプロレタリアは基本的には共産主義を目指す。それゆえ社会主義はプロレタリアにとって、乗り越えられるべきものである、というのが彼らの見方であった。

貴族を頂点とする没落しつつある階級は、新たに支配者となりつつあるブルジョワジーに対抗するための理論として、ブルジョワ的な自由競争を攻撃し、古い時代の共同体的なよさを主張する理論をたてるのであるが、それが社会主義の衣をまとうというわけである。農民や手工業者なども、ブルジョワジーに対抗して自分らの階級的利害を守ろうとすれば、貴族同様に自由競争を攻撃し、農村的な家父長制のよさとか、同業組合のよさを強調するようになる。それが社会主義の衣をまとうわけであるが、その衣も基本的には反動的なものであるというのが彼らの見立てである。

ブルジョワジーが社会主義を主張するとすれば、それは階級対立の矛盾を幾分でもやわらげ、社会に安定をもたらしたいという下心からだとかれらはいう。したがってそれは、基本的には階級のない社会といったものを夢想することとなるが、それはいわば、プロレタリアのいないブルジョワ社会を夢想するようなものである。その意味では欺瞞的であり、かつ反動的なものだ。

社会主義理論のうちで最も典型的な形を示すのは中産階級の社会主義理論だと彼らは見る。というのも中産階級はつねに没落の危機にさらされているからで、いつなんどきプロレタリアの境遇に蹴落とされないとも限らない。中産階級は未来の自分の姿であるプロレタリアの立場にたてば、急進的な主張に傾くが、中産階級そのものとしては自分の特権を維持することが目的となるので、その点では反動的になる。

中産階級の社会主義は空想的なものに傾く、とかれらは見る。その理由は、かれら中産階級は自分たちのいまある姿がもっとも理想的なものだと考え、その理想に固執するあまり空想的にならざるを得ないからだ。

中産階級の空想は、人間のあるべき姿から出発する。人間のあるべき姿とは、今現在における中産階級の状態を理想化したものである。その理想化された中産階級の姿こそが、人間一般の理想なのであり、それからの逸脱あるいは没落は、あるべき人間性からの疎外ということになる。かれらがそのように考えるのは、かれらが生きている時代を、歴史における一時期として相対的にとらえるのではなく、永遠普遍のものとして絶対的に捉えるからだ。そうした絶対的な状態にあっては、人間は階級の一員としてではなく、普遍的な原理を体現した存在として捉えられる。そこにも彼らが空想的にならざるをえないものがある。しかし、どの階級にも属さない人間などは、だいたい現実のものではなく、哲学的空想の曇り空の中に住む人間に過ぎないのだ。

こうした中産階級の空想的な議論は、実はマルクスの若い頃の考えと似ているところがある。「経済学・哲学草稿」に集約されたマルクスの初期の思想は、一言でいえば「疎外論」ということになるが、疎外論というのは、人間のあるべき姿を想定して、それからの疎外とか外化というようなことを論じていたものだ。その人間のあるべき姿というものは、若いマルクスによって人間の類的存在というような言葉で表現されていたが、マルクスはその概念をヘーゲルから学んだのである。つまり若い頃のマルクスは、ヘーゲルに依拠しながら、かなり思弁的な議論をしていたわけである。それはマルクスの中にあったプチブル意識がしからしめたものと思われる。

マルクスは、この「共産党宣言」においては、そうしたプチブル意識を克服しているようである。マルクスはもはや、人間の永遠普遍の理想的あり方とそれからの疎外などということは一切言わない。人間の意識というものは、哲学的空想の曇り空をただよっているわけではなく、現実の社会関係、それは究極的には生産関係に還元されるが、そうした現実の関係を反映したものだというふうに、考え方が変化している。

こうして見ると、「共産党宣言」は社会変革のマニフェストであるだけでなく、マルクスらの新しい人間観を示したものだとも言えるのではないか。マルクスらはこの著作を通じて、人間を頭ではなく足で立たせ、現実の社会関係を生きる者として描きだしているわけである。現実の社会関係が人間の思想を規定する。たとえば、「良心の自由とか宗教の自由とかいう思想は、ただ、知識の領域に自由競争が支配していることを言っているにすぎない」。そして知識の領域での自由競争は、経済の領域での自由競争の一つのパターンに過ぎないのである。

現実の社会関係が人間の意識を規定するのであって、人間の意識が現実の社会関係を規定するわけではない。これがマルクスらが「共産党宣言」で打ち出した基本的なテーゼである。



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