知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




経済学批判:マルクスを読む


「経済学批判」は、マルクスの経済学研究の最初の本格的な成果である。マルクスが経済学の研究に向った動機は、近代社会の本質を理解する鍵は経済の分析にあると思ったからだった。何故なら人間社会というものは、経済的な関係を土台として、その上に展開しているからだ。そのことをマルクスは、この書物の有名な序文のなかで指摘している。その部分は以下のようなものだ。

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(武田他訳岩波文庫版「経済学批判」)

マルクスはこういった考えを、突然思いついたわけではなく、「経済学・哲学草稿」以来の初期の営みのなかで次第に熟成させていった。初期のマルクスは、まだヘーゲルの尻尾に振り回されていて、観念的なところもあったが、次第にその観念的な傾向から脱皮して、唯物論的な基礎に立つようになった。「経済学批判」は、その序言に見られる通り、唯物論の視点から、人間社会を分析した最初の体系的な試みなのである。マルクスがこの試みに満足していたことは、それ以前にエンゲルスと共同で書いた著作「ドイツ・イデオロギー」の出版を放棄し、その原稿を「鼠どもがかじって批判するのにまかせた」という言葉からうかがえる。

「経済学批判」はそれ自体で完結した著作ではない。マルクスは近代資本主義社会の体系的な分析を目指していたのだが、この著作はその体系の一部をなすものである。体系の全体像についてマルクスは、序言の冒頭で次のように言及している。「わたしはブルジョワ経済の体制をつぎの順序で考察する。すなわち、資本、土地所有、賃金労働、国家、外国貿易、世界市場。はじめの三項目では、わたしは近代ブルジョワ社会がわかれている三大階級の経済的生活諸条件を研究する。あとの三項目の連関は一見してあきらかである、資本をとりあつかう部分は、(1)商品、(2)貨幣または単純流通、(3)資本一般からなる。

つまりマルクスは、近代資本主義社会を階級対立社会ととらえたうえで、それが資本家、地主、賃金労働者の三つの階級からなると考え、それぞれの階級の経済的生活諸条件を分析することで、資本主義社会の本質が明確になると考えていたわけである。マルクスはその社会をとりあえず国家単位で考え、そこから国家同士の貿易及びそれを通じての世界市場の成立という具合に、分析を進めていくつもりだった。「経済学批判」と題したこの著作は、その導入部分にあたるものであり、資本の分析の初歩を展開している。上述の構想にあてはめれば、(1)商品及び(2)貨幣または単純流通に相当する。

マルクスが経済分析を商品から始めるのは、商品こそが資本主義的経済関係を根本的に規定すると考えるからだ。商品は、資本主義以前の社会でも存在してはいたが、それはいわば偶然の現象としてであった。資本主義社会においては、商品は必然的なものとして、経済のすべてを規定する。そこでは、土地も人間労働も、商品としての性格規定を受けるのだ。商品のうちに、資本主義社会の本質がかくされている。それをあぶりだすことで、資本主義社会の全体像とその本質とが見えて来る。そうマルクスは考えて、商品の分析から始めるのである。

ところでマルクスがこの著作を「経済学批判」と題したのは、アダム・スミス以来のいわゆるブルジョワ経済学や俗流経済学への批判という意味を込めてのことだ。これらの経済学は、資本主義的経済関係を、歴史的な形成物とは見ずに、永遠普遍的なものと考える。だから商品についても、大昔から存在したものとみなし、その歴史的な性格を見ない。それゆえ非歴史的で観念的な分析に陥らざるをえない。だが、エンゲルスも書いているように、「経済学とは、近代ブルジョワ社会の理論的な分析なのであり、したがって発達したブルジョワ的状態を前提とするものである」。この状態は、ドイツではつい最近まであらわれなかったために、経済学が成立する条件がなかった。イギリスやフランスにおいては、ブルジョワ的な条件は成熟していたが、ブルジョワ経済学がそれを歴史的なものと見ないで、永遠不変な事象と見たために、科学的な分析には及ばなかった。そういう批判意識があって、自らの経済分析を「経済学批判」と称したわけである。

ともあれマルクスは経済学を商品の分析から始める。商品は物という形をとるが、実際には人と人との間の関係が商品という形に結晶するのである。そのことをエンゲルスはつぎのように表現している。「経済学がとりあつかうのは、物ではなく、人と人との関係であり、結局は階級と階級との関係であるということ、しかしこの関係は、つねに物にむすびつけられていて、物としてあらわれるということ、これである」

近代ブルジョワ社会を構成する三つの階級のことに戻ると、それは資本家、地主、賃金労働者ということになる。マルクスはブルジョワ社会における階級対立を、最終的には資本と労働との対立に解消するわけであるが、「経済学批判」を書いた段階では、地主の存在も重視していた。だから、資本主義経済の分析と称しながら、地主の取り分である地代の分析に一章を割くつもりだったわけである。もっともその地代とは、封建的な地代ではなく、資本主義的な地代である。資本主義的な地代とは、資本によって運営される土地経営にもたらされる地代である。それは利潤率の平均化というメカニズムを通して、土地経営者が受け取る分け前という形をとる。

ところで、「経済学批判」でマルクスが示した経済分析の全体像は、どのようになったか。それを詳しく知るためには、「資本論」の構成を、上述の全体像のアウトラインとの間で照合する必要があろう。手短にいうと、マルクスは資本の分析に全力を傾ける一方、それを単純化するために、国家の枠組みを前提にし、世界市場の分析までは手が回らなかったと言えようか。



HOME 今こそマルクスを読む次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである