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商品、貨幣、資本:マルクス「経済学批判」


マルクスの「経済学批判」は、商品一般から特殊な商品としての貨幣が生まれ、それが資本に転化していく過程を分析している。その分析を支えるのは労働価値説だ。労働価値説はアダム・スミスやリカードといったブルジョワ経済学者がそもそも採用したものだが、その後継者というべき現代の主流派経済学は、もはや考慮に入れていない。というか不用の仮説として全く採用していない。そのかわりに需給関係のみにもとづいて商品の価格が決定されると想定している。商品に認められるのは価値ではなく、ただの価格だ。価値は実在的な要素だが、価格は単なる徴標にすぎない。なぜそうなるのか、マルクスの「経済学批判」を読めば、その成り行きがよく見えて来る。

商品は使用価値と交換価値との統一体としてあらわれる。そのうち商品として問題となるのは交換価値である。諸商品はその交換価値に応じて、互いに交換される、つまり売買される。その交換価値の実体は、それの生産に費やされた労働時間である。それも具体的な、つまり使用価値の生産につながるような具体的労働ではなく、抽象的な労働である。抽象的な労働とは、マルクスによれば、「無差別な、一様な、単純な労働・・・質的には同じで量的にだけ差異のある労働」のことをさす。そうした抽象的な労働時間が一定量凝固したもの、それが商品である。

労働価値説は、マルクスの時代にはまだ経済学の常識と思われていたので、マルクスはそれを立ち入って根拠づけてはいない。当然のこととして前提している。ただ、その労働価値説にもとづいて、具体的に商品の価格が決まるプロセスについては、神経を使った分析を行っている。というのも、当時の俗流経済学には、具体的な労働時間がそのままストレートに商品価格を決めるとする見解が支配的だったからである。そんなことはありえない、とマルクスは考えていた。なぜなら、商品の価格は、それの生産に費やされた労働時間がストレートに反映されるわけではなく、その決定には競争が介在するからである。同じような商品の生産に費やされる具体的な労働の量はさまざまでありうる。しかしその商品について成立する価格は一様である。競争がそうさせるからである。その場合に、もっとも少ない労働時間が、その商品の価格を決めるポイントになる、とマルクスは考えた。ということは、商品の価格を決めるものは、その商品の生産に必要な最低限の労働時間ということになる。いずれにしても、抽象的な労働時間が商品価格を決定することには間違いない。それゆえ労働価値説という名が相応しいのである。ところが、現代の主流派経済学は、その労働時間を捨象して、需給関係だけに焦点をしぼり、商品価格は需給関係だけで決まると考える。これはマルクスによれば倒錯した考えなのである。

貨幣については、マルクスはそれを特殊な商品としてとらえている。商品であるから、使用価値と交換価値の統一体である。貨幣の使用価値は、商品の流通手段として、いつでもどこでも一定の商品と交換できるという利便性にある。貨幣の交換価値は、ほかの商品同様、それの生産に費やされた労働時間である。マルクスが貨幣として前提しているのは、金銀などの貴金属、とりわけ金であるが、それの交換価値は労働時間の凝固したものなのである。金が貨幣に選ばれたのは、素材としてのその特徴にもとづく。貨幣としての商品は、あらゆる点で一様であり、かつどのようにも可塑的に分割できるものでなければならない。そういう要請を満たすもの、それが金なのである。だから金は、貨幣になるべくしてなったといえる。歴史上には、金のほかに貨幣の役割を持たされたものはあったが、最終的にはどの文化圏においても、金が貨幣となり、それを銀が補完するという形に収斂されていった。

商品が貨幣を介して取引されるプロセスを、マルクスはW-G-Wという式を用いて説明している。Wは商品、Gは貨幣をあらわす。だからこの式は、商品を売って貨幣に替え、それで得た貨幣で商品を買うというプロセスをあらわしている。この式は、前半と後半とが連続的に継起することをあらわしているが、必ずしもそうなるわけではない。前半と後半との間にはかなりの時間が介在することもある。そこから貨幣の蓄蔵といったことも生まれる。

貨幣はまた、支払い手段としての性格もあわせもっている。これは信用取引がある程度発展した段階で生じて来るものだ。

貨幣は商品として一定の交換価値を内在させている。その交換価値は労働時間が凝固したものである。その交換価値を以て諸商品の流通を成立させるわけだ。その流通がとどこおりなく行われるためには、貨幣の量が諸商品の交換価値の全体と釣り合っていなければならない。というより、貨幣の流通量は諸商品全体の交換価値に応じて定まるのである。ただ貨幣には、何度も使えるという特徴があるために、貨幣の全体量に加えて、その流通速度を考慮に入れなければならない。流通速度が三倍と仮定すれば、必要な貨幣量は、商品価格全体の三分の一ですむ勘定である。俗流経済学は、貨幣を単なる価値帳標としてとらえるために、貨幣と商品との関係について混乱した考えを抱くようになった、とマルクスは言う。単なる価値帳票なら、紙でも貨幣になれるわけだ。だが無条件でなれるわけではない。金の代替物として、いつでも金に兌換されることが必要だ。でなければ経済は無用の混乱に陥る。そうマルクスは考えていた。

資本については、商品が転化したものとして、蓄積された労働だとマルクスは考えた。その蓄積された労働を生きた人間の労働と結びつけて、商品を生産し、そこから剰余価値を生みだすというのが、資本主義的生産関係の基本的な特徴と考えるわけである。剰余価値が生まれる秘密は、人間の労働力がもつ特徴にある。人間は自分自身の交換価値をこえて、商品を生産することができる。その余剰部分の労働が剰余価値を生みだす。そうマルクスは考えるのである。

以上マルクスは、商品、貨幣、資本が資本主義的生産関係の基本要素であると考え、それらがいずれも人間の労働を内実としていると考えた。人間の労働が商品を生産し、それの交換から貨幣が生じ、その貨幣が資本に転化していく。これらの過程を貫いているのは、人間と人間との社会的な関係である。その社会的な関係が、物と物との関係として見えることがある。そうした見方にとらわれると、商品は需給関係にもとづいた独自の論理によって動き、そこに内在している人間同士の関係が見えなくなる。そうマルクスは考えたのである。



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