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貨幣論の批判:マルクス「経済学批判」


マルクスの貨幣論の基本的な特徴は、金本位主義というべきものだ。貨幣としての金にも固有の価値がある。金は特殊な商品であり、商品として使用価値と交換価値との統合したものである。その交換価値は一定量の労働が凝固したものだ。そういう観点から、市場における貨幣としての金の流通量は、市場に出回っている商品全体の交換価値に匹敵すると考える。貨幣としての金は、一度だけではなく何度も使われるから、流通手段として実際に必要な金の量は、流通速度を勘案したうえで、商品の総価格に対応したものになる。金の総量が商品価格の総量より上回れば、不要な部分は蓄蔵されることになる。その反対のケースを、マルクスは詳しく取りあげてはいないが、おそらく別の形で補填されると考えていたのではないか(信用取引など)。

そういう立場からマルクスは、さまざまな貨幣論に批判を加える。まず重商主義への批判。重商主義は重金主義になる。重金主義とは、金を富そのものとして重宝する立場である。金には交換価値があるから、それは間違いではないのだが、しかしその交換価値は、商品の流通手段として用いられるかぎりにおいて有用であるにすぎない。ところが重金主義は、流通を考慮の外において、金の獲得そのこと自体を至上目的とする。それは一種の物神崇拝だ、というのがマルクスの重商主義批判の要点である。

次にヒュームへの批判。ヒュームは哲学者として有名だが、経済学にも頭を突っ込んだのだった。ヒュームの貨幣論は次のように要約される。一国における商品の価格は、その国に現存する貨幣の量によって規定される。したがって貨幣の量が増加すれば、その分商品の価格は上昇し、その逆の場合には逆の現象がおこる。これは貨幣を、商品流通を円滑に行うための価格標章としてのみ見るもので、貨幣つまり金そのものには固有の価値を認めない立場だ。そういう意味では重商主義の正反対ということになる。実際ヒュームは、重商主義に反対するという立場から自分の流通理論を組み立てたようなのである。重商主義の克服は、ヒュームに限らず、当時勃興しつつあったブルジョワ全体の共通の関心事だった。その関心事とは自由貿易である。自由貿易にとって、重商主義は敵対的だと受け止められていたのである。

ヒュームのそうした貨幣論についてマルクスは、商品の価値と金の価値とを度外視して、ただそれらの相関的な量についてだけ論じていると批判する。この批判は、今日の有力な金融理論である貨幣数量説についても当てはまる。貨幣数量説も、ヒュームと同じく、すべての貨幣は死蔵されることなく、流通に入りこむということを前提にしているからだ。実際には、貨幣は、流通のために不要な部分は退蔵されるのである(だからいくら貨幣を増加させても、それだけでは、インフレが起きることはない)。

ついでスチュアート。スチュアートは、流通する貨幣の量が商品価格によって規定されるのか、それとも商品価格が流通する貨幣の量によって規定されるのか、という問題を提起した最初の人であるとマルクスは評価している。その問いへの答えは、流通する貨幣の量は商品価格によって規定されるとするものだった。「一国の流通は、ただ一定量の貨幣を吸収できるだけである」。「商品の市場価格は、需要と競争との複雑な作用によって規定されるが、この需要と競争とは、一国に存在する金銀の分量とはまったく無関係である。それでは、鋳貨として必要とされない金銀はどうなるか? それは、蓄蔵貨幣として蓄積されるか、または奢侈品の材料として加工される」。マルクスの貨幣論は、このスチュアートの理論とほぼ同じものだと言える。

そのスチュアートの理論を、アダム・スミスも取り入れたが、スミスはそれをひっそりと、スチュアートの名を出さずに、まるで自分の功績のように主張したと言って、マルクスはスミスの狡猾さを非難している。

リカードは、金銀は特殊な商品であり、したがって固有の価値を持っているとした点ではスチュアートと同じ立場に立っているのだが、実際の経済分析の場では、ヒュームと同じような過ちを犯している、とマルクスは批判する。リカードは、商品価格の変動を流通する金の量によって説明するのだ。リカードがヒュームと違う点は、ヒュームが金の流通量が無条件に商品価格を規定すると考えるのに対して、金の量が商品価格を変動させるのは短期的な現象だとみていたことだ。金の流通量が増えて、その固有の価値以下で取引されるようになると、金の生産が減少する。逆に金がその固有の価値以上で取引されると、金の生産が増える。その結果新たな均衡が生まれ、金はその本来の価値と一致する、というのがリカードの理論の要点である。

生産による金の量の調節は、国際貿易の場に類推解釈して適用される。国内の金の量が増えすぎると、金はその固有の価値よりも下落するのであるから、金は国内にとどまり続けるよりは、国外へ流出する傾向を持つ。逆の場合、すなわち価値の増加が起きる場合には、国外から流入する傾向が強まる、と考える。いずれにしても最終的には、国内における金の量は、商品価格の大きさに一致する傾向を持つと考えるわけである。

以上の批判を通じてマルクスは、貨幣としての金にはそれ固有の価値があり、その価値を以て流通に入っていくので、商品価格の総額に対応した部分だけが実際に流通し、それ以外の部分は退蔵されると主張したのであった。貨幣の退蔵という問題は、後にケインズが流動性選好という概念で説明したものである。だが今日マネタリズムという形での貨幣数量説が幅をきかせている風潮のなかで、貨幣が退蔵されるという現象は、ほとんど考慮されていないと言ってよい。その結果、各国の中央銀行はいまだに、貨幣を垂れ流すことでインフレを起こせると信じ込んでいるわけである。



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