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経済学の方法:「経済学批判序説」から


「資本論」の叙述がヘーゲルの論理学を強く意識していることはよく知られている。ヘーゲルの著作「大論理学」は弁証法と呼ばれる方法で貫かれている。マルクスはその弁証法を参考にしながら、自分なりに資本主義経済を叙述してみせた。もっともヘーゲルの弁証法には、精神的なものが自分自身を外化するというような観念論的な倒錯があるわけで、そのままには使えないとマルクスは考えた。観念論的な倒錯を再倒錯させて、唯物論的な立場から弁証法を展開する。それをマルクスは弁証法的な唯物論とか、史的唯物論と呼んだのだった。

弁証法的な唯物論あるいは唯物論的な弁証法を史的唯物論と呼んだわけは、歴史とは精神的なものの展開あるいは発展であるよりは、物質的なものの基盤の上に生成発展するものだと考えるが故である。人間の社会というものは、物質的なものを下部構造として、その上に精神的なもの、それは法的、政治的、文化的なものからなるわけだが、そうした精神的なものが上部構造として展開するというふうに、マルクスは考えた。だから、人間の社会の発展を叙述するためには、まず下部構造を抑え、その上で上部構造についての叙述を展開させるという形をとらねばならない。ところでその下部構造とはマルクスによれば、経済的な関係ということになる。ある社会にとっては、この経済的な関係こそが下部構造として、上部構造としてのもろもろの精神的な要素を規定するのである。

以上のことを念頭に置きながら、経済学の方法についてのマルクスの議論を読む必要がある。

マルクスは次のように言う。「あるあたえられた国を経済学的に考察するときには、われわれは、その国の人口、その人口の諸階級への、都市、農村、海洋への、さまざまな生産部門への配分、輸出と輸入、年々の生産と消費、商品価格等々から始める。(このように)現実的で具体的なものから、現実的前提からはじめること、したがってたとえば経済学では、社会的生産行為全体の基礎であり主体である人口からはじめることは、正しいことのように見える。しかしこれは、もっと立ち入って考察すると、間違い<であること>がわかる」

なぜ、間違いなのか。その理由をマルクスは、こうした具体的なものは、さまざまなものに媒介された結果あらわれるものなのであって、その媒介要素を知らずしては、正確な理解ができないからだとする。媒介要素とは一般的でかつ単純な規定性である。そうした単純な規定性によって媒介されたものとして、現実の具体的なものを見る場合に初めて、その全体像が見えて来る、そうマルクスは考えるわけである。

マルクスのこの考えは、ヘーゲルに影響されたものである。ヘーゲルは「大論理学」のなかで、抽象的なものと具体的なものの関係について触れ、論理学の体系は抽象的なものを出発点として、次第に具体的なものへと進んでいかねばならないと主張した。もっとも、抽象的なものは、無媒介に定立されるわけではなく、具体的なものを前提にして、そこから抽象されてくるものである。その場合に、具体的なものから抽象的なものへと掘り下げる過程をヘーゲルは下向的方法(下向法)と呼び、獲得された抽象的なものから具体的なものへと進んでいく過程を上向的方法(上向法)と呼んでいる。これらの過程を踏まえてあらわれた具体的なものの姿は、当初の混沌としたあり方から、抽象的な概念によって媒介された、理路整然とした姿としてあらわれることができる。

このヘーゲルの方法論を経済学に適用すると次のようになる、とマルクスは言う。「もしわたしが人口からはじめるとすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、いっそう立ち入って規定することによって、わたしは分析的にだんだんとより単純な概念に達するであろう。つまりわたしは、表象された具体的なものからますます希薄な一般的なものに進んでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうだろう。そこから、こんどは、ふたたび後方への旅がはじめられるはずで、ついにわたしは、ふたたび人口に到達するであろう。そかしそれは、こんどは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの規定と関連とをもつ豊富な総体としての人口である」

マルクスはこう言って、「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである」と強調している。その多様なものの統一をもたらすものが、弁証法だとマルクスは考えるわけである。

このような「もっとも単純なものから複雑なものへと上向していく抽象的な思考の歩みは、実際の歴史的過程に照応している」とマルクスは言う。たとえば地代は、マルクスの時代においては資本主義的な生産の分配の一形態であるが、その資本主義的地代を知れば、過去の時代の貢納や十分の一税なども理解することができる。貢納や十分の一税は土地所有にもとづく直接的で単純な収用だが、地代は資本主義経済を前提にして成立する複雑な制度なのである。その理論的な複雑さへの発展は、実際の歴史的過程に照応しているというわけである。

マルクスは、経済学においても、もっとも単純なものから出発しなければならぬと考えるのであるが、その出発点としての単純なものを、マルクスは商品とした。商品こそは、資本主義的経済現象の鍵となるものである。商品を出発点として、一般的な商品のなかから特殊な商品としての貨幣が成立し、その貨幣が資本へと転化する過程を追うことで、資本主義経済の本質があらわになると考えたのである。ヘーゲルの論理学が単純な存在から出発し、その否定としての無を経て、存在と無との統一体としての生成へと進んでいくのとほぼパラレルな対応関係を、そこには指摘することができる。

以上、マルクスの経済学が、極めて方法論的な意識に支えられたものであり、しかもその方法がヘーゲルの弁証法を意識的に適用したものであることに、われわれ読者は、強い印象を受ける。



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