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フランスの内乱:マルクスのパリ・コミューン論


「フランスの内乱」は、パリ・コミューンの歴史的な意義を主張した政治的パンフレットである。マルクスはこれを、パリ・コミューンが崩壊した直後(おそらく数日以内)に書き上げたといわれる。マルクス自身による奥書には「1871年5月13日 ロンドン」とあるが(新潮社版マルクス・エンゲルス選集第10による)、これは何かの勘違いだろう。というのは、パリ・コミューンが最終的に崩壊したのは1871年5月28日のことで、マルクスの文章はその日までカバーしているからだ。

マルクスがこの文章を書いた動機は、一つには、マルクスが当時加入していた国際労働者教会(第一インターナショナル)総務委員会がパリ・コミューンと深いかかわりがあり、その立場からパリ・コミューンの意義を宣伝する必要があったためだが、より強い動機としては、マルクスがパリ・コミューンに労働者革命の一つの典型を認めたからだと思われる。マルクスは1848年の二月革命にさいして、それがプロレタリアートによる初の本格的な革命であったにかかわらず、いとも簡単に抑圧されたことの理由を色々と分析したわけだが、その最も大きな理由は、プロレタリアートがいまだ政治的に未熟だったためだと結論していた。ところが、1871年には、フランスのプロレタリアートは、一時的ではあるが、権力を握って、プロレタリアート政権というべきものを樹立した。そこにマルクスは、プロレタリアートの政治的な成熟と、資本主義にかわる労働者のための社会のあり方についての強烈なヒントを見て、それの歴史的な意義と、にもかかわらず短期間で崩壊したことの原因をさぐり、将来のもっと本格的なプロレタリア革命に向けての参照軸にしたいと考えたといえよう。

マルクスは、普仏戦争の敗北から第二帝政の終焉と共和制の成立を経て、パリ・コミューンの樹立とその崩壊にいたるまでの過程を、実に臨場感のこもった筆致で追跡しながら、パリ・コミューンの果たした歴史的な役割と、それが崩壊した理由とを詳細に分析している。その分析は、マルクス一流の洞察力とウィットに富んだ表現に彩られている。その文章の迫力は、じっさいに読んでみればひしひしと伝わってくる。それについては、読者自身が直接文章にあたってたしかめてほしい。ここでは、パリ・コミューンの歴史的な意義についてのマルクスの見方と、それが崩壊した理由をマルクスがどのように考えたかについて、簡単に触れてみたい。

まず、労働者革命としてのパリ・コミューンの歴史的な意義について。マルクスは、資本主義システムには没落に向かう内在的な傾向があり、いつかは違う社会システムによって置き換えられると考えていた。その没落は資本主義システムへのプロレタリアの反抗によって加速され、資本主義システムが没落した後には、資本と労働との対立は解消されると考えていた。しかし、それはあくまでも一般論としてであって、没落がどのような様相を呈し、また資本の支配に代ってどのような政治システムが樹立されるかについては、詳しい議論はされなかったし、また出来ないでいた。パリ・コミューンは、その空白を埋めるかのように、労働者によって樹立されるべき新しい社会システムのヒントを与えてくれた、とマルクスは受け止めたのであった。

パリ・コミューンは3月18日に、「コミューン宣言」が出されることで樹立された。それは、フランス国家とは別に、パリを統治する自主的な政治形態であった。フランスの既存の国家形態は、議会・行政・司法の三権分立の形態を取っていたが、パリ・コミューンはその三権分立を廃止し、コミューンは単なる議会的な集団ではなくして、執行部にして同時に立法部たる行動的集団であった。そういう政治形態を、英語圏では委員会制度といい、ロシア語ではソヴェートという。しかしてコミューンを実質的に担うのは労働者階級である。コミューンとは労働者による統治あるいは支配の政治的な形態だというのがマルクスの理解である。そのコミューンをマルクスは、「そのもとにおいて労働の経済的解放が達成されるべき、ついに発見された政治形態であった」(山川均訳、以下同じ)と言っている。

コミューンの実質的な権力を支えたものは労働者の軍隊である。その軍隊がなければ、コミューンはあっさりと転覆されたであろう。もっともコミューンは二ヶ月しかもたなかったわけだが、その二ヶ月の支配を支えたのは独自の軍事力だったわけである。コミューンはまた、既存の警察を解体した。そのうえで、政治的な性質を取り除き、コミューンに対して責任を負う警察組織を作った。また、僧侶の権力と呼ばれるものを打破した。僧侶の権力はフランスの教育を支配していたのだったが、その教育を民衆のものにした。

司法制度の改革も実施した。裁判官や検事も、ほかの公職同様、選挙で選ばれ、コミューンに対して責任をもち、解職されうることとなった。

こうしたコミューンの政策に対して、ヴェルサイユに移転した共和国政府は、ティエールを先頭にして、「いっさいの文明の基礎たる財産を廃止しようとする!」と言って非難した。それに対しては、マルクスは、「コミューンは多数の人々の労働をわずかな人々の富とするところの、階級財産を廃止する。それは収奪者の収奪を目的とした」と反論する。「収奪者の収奪」とは、「資本論」第一巻の中で使われていた言葉である。それは階級支配の基礎を破壊することを意味する。「階級支配の存在が立脚するところの経済的基礎を、根こそぎにする」ことが、労働者の支配を確立するためには不可欠だというのがマルクスの主張である。

ティエールらは、既存の国家権力のすべてを動員してコミューンの破壊に狂奔した。かれらは自分たちだけではなく、ビスマルクの力まで借りた。ビスマルクは、講和条約をドイツにとって破格に有利なものとするために、ティエールに恩を売ったわけである。じっさいビスマルクは、アルザス・ロレーヌの併合に成功している。それは、マルクスによれば、コミューン破壊への協力に対する謝礼のようなものだったのだ。

このことをマルクスは、「征服者と被征服者との両軍勢がプロレタリアートを共同で虐殺するために手を握らねばならなかった」と言い、「国民的な諸政府は、プロレタリアートと対立したものとしては、一つのものである」と言っている。

ここまで準備して攻撃されては、パリ・コミューンもかなわない。その支配は二ヶ月で覆され、パリの市民は無慈悲に虐殺された。それについては、パリ・コミューン側にも油断があった。その油断をマルクスは、「支配の二ヶ月におけるコミューンの節制」と呼んでいるが、くわしくは触れていない。おそらく、既存の権力を全面的に解体しなければ、労働者の革命は成就しないと言いたいのであろう。既存の国家権力が健在なかぎり、新しい権力は存在できないのである。既存の国家権力を新しい権力に接ぎ木するわけにはいかないのである。

かくしてパリ・コミューンは崩壊した。しかし、資本主義社会の矛盾が解消されなければ、これに似た革命的な運動は繰り返し起こるだろう。そして最後には、プロレタリアートが勝利するだろう、とマルクスは仄めかしている。

このパンフレットは次のような言葉で締めくくられている。「労働者のパリはそのコミューンとともに、新社会の前駆として祝福されるだろう。その殉難者は、労働階級の偉大な心のなかに祭られている」



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