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フランスの内乱1891年版へのエンゲルスの緒言


パリ・コミューンの20周年を記念して発行された1891年版の「フランスの内乱」に、エンゲルスが緒言を寄せている。これは、マルクスによるパリ・コミューン論の核心的な部分を再確認するものだが、エンゲルスが最も強調しているのは、パリ・コミューンが崩壊した理由と、それに関連して、プロレタリアートの国家に対するかかわり方についてである。

パリ・コミューンが崩壊した理由をマルクスは、労働者たちの階級敵に対する寛容さだったと結論付けているが、エンゲルスもまた、それに同調しながら、労働者たちが既存の国家権力を破壊せずに、その存続を容認したために、武装解除されて崩壊したと見ている。マルクスの場合には、主として労働者階級の不徹底さがコミューンの崩壊をもたらしたと見ているのに対して、エンゲルスの場合には、既存の国家権力がいかにしてコミューンを武装解除したかという点に、焦点を当てているわけである。

エンゲルスは言う、「労働階級は、ひとたび支配を奪ったなら、古い国家機関をもっては、うまく取りまかなっていかれぬということ、この労働階級は彼ら自身の、初めて奪取したばかりの支配を再び奪われぬためには、一方においては、今日まで彼ら自身に対して利用せられていた一切の古い圧制の機構を破壊し、他方においては、それは例外なく、いつでも罷免しえられるものだということを宣言することによって、彼ら自身の代理人と役員とに対して自らを保証しなければならぬということを、コミューンは最初から承認しなければならなかった」(山川均訳、以下同じ)。ところがコミューンは、パリの市内においてこそこうした手続に着手したものの、かれらが打倒したはずの、共和制の国家機関を放置したために、それに反撃の余裕を与え、ついには武装解除されて崩壊した、とエンゲルスは見るのである。

エンゲルスは、パリ・コミューンの指導部をブランキ派とプルードン派の寄せ集めと見ている。そして経済的な措置についてはプルードン派が主導権をとったが、政治的な面においてはブランキ派が主導権をとったと見ている。ブランキ派は無政府主義者で、従って国家については否定的なはずだったが、なぜか既存の国家機関を解体する動きを見せなかった。一方プルードン派は、マルクスが「哲学の貧困」で批判したように、団体とか組織といったものを憎悪していた。かれらは労働者階級の闘争の武器たるべき労働組合の意義さえも否定した。したがってコミューンを、労働組合の高度に政治化したものだと考えることはできなかった。そんなわけで、パリ・コミューンを階級支配の機関として打ち出すようなことは考え及ばなかった。

こういう事情が重なって、パリ・コミューンは、階級敵としてのブルジョアが牛耳る既存の国家機構を粉砕しようとする積極的な動きを見せなかった、とエンゲルスは捉えているようである。つまり、パリ・コミューンは国家の本質をよく理解していなかったために、国家によって屈服させられたと見るわけである。

エンゲルスは言う、「国家はある階級による他の階級の圧迫以外の何ものでもなく、しかもこれは民主的共和政治にあっても、君主制においても少しも異ならぬ」。民主的共和政治にあっては、ブルジョアジーのプロレタリアートへの圧制が、君主制にあっては、封建権力のブルジョワジーへの圧制が仕組まれているというわけであろう。ともあれ国家というものは、階級支配の道具であることを忘れてはならない。だからコミューンは、ブルジョワジーの階級支配の道具たる国家機構を全面的に破壊すべきだったのである。それを怠ったがために、ブルジョワジーに反撃の余裕を与え、コミューンの武装解除と崩壊への動きを可能にした、とエンゲルスは考えるのである。

エンゲルスはまた、国家機関が社会から相対的に独立する傾向についても指摘している。国家機関の本質は階級支配の道具ということだが、名目的には全国民の利害を代表していると主張し、国家機関は国民に仕える僕であるというような言い方をする。そういう言い方がもっとも好まれているのはアメリカである。アメリカでは、国家機関はシビル・サーバント(公僕)であると言われる。つまり社会にとっての単なる道具たる使命を持つに過ぎないとされる。ところがその国家機関が、じっさいには、社会から独立して、それ特有の利害を追及するようになる。アメリカには二大政党というものがあって、それらが交互に国家機関を独占するのだが、その独占を通じて、自分たちの私的な利益をむさぼることがなされている。この二大政党は、どちらも似たようなものであって、共通するのは、「もっとも腐敗した手段によって、もっとも腐敗した目的のために」国家機関を利用するという点である。その二大政党をエンゲルスは「政治的投機師」と呼んでいるが、これが今日にいたるまでアメリカの政治を動かし続けているのである。

そんなわけでエンゲルスは、国家の階級支配としての本質と、プロレタリア革命が既存の国家権力と共存することの不可能性を説いた。プロレタリアートは、革命を成功させるためには、既存の国家権力を解体しなければならない。それにかわってプロレタリアートが目指すべきなのは「プロレタリアの独裁」なのである。この独裁がどのような内実を伴うものか。それについては、まだ詳細を論じる段階ではないと考えているのか、エンゲルスは、詳しく言及することはしない。



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