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議会と革命


ブルジョワ革命としてのフランス革命は、議会を舞台として起こった。革命以前のフランスは、基本的には絶対王政の体制であり、王の臣下たちが専制的な統治を行っており、議会などは存在しなかった。だから、ブルジョワは自分たちの政治的な代理人を持たなかったのである。そのかれらが曲がりなりにも議会を召集させ、そこに自分たちの政治的な代理人を持つことができたことで、自分たちの政治的な要求を実現させる機会を獲得したわけである。その機会は最大限活用され、ブルジョワたちは自分たちに都合のよい統治システムの構築に成功した。それは前の時代からは断絶していたので、革命という名前が相応しかった。

イギリスの場合には、ブルジョワによる政治権力の掌握は、フランスの場合ほどドラスティックな形をとらなかったが、それでも今日市民革命と呼ばれている通り、体制の徹底的な変革を伴った。それは、フランスのように、君主制の転覆ということは伴わず、せいぜい王権の制約という穏やかな形をとったわけだが、それでもブルジョワが社会の主人となるには十分だった。そしてその変革もまた議会を舞台にして行われた。

議会を舞台にした変革は、暴力を伴うこともあったが、基本的には平和的に行われた。平和的というのは、階級間の対立が大規模な内乱に発展することなく、議会の多数派の意思が大勢を決したという意味で、かならずしも騒乱を伴わないという意味ではない。フランスの場合には、じっさい王がギロチンにかけられたわけであるし、イギリスでも清教徒による反乱が伴った。しかし、変革のための基本的なプロセスは議会において決せられたといってよい。議会は、ブルジョワ革命の強力な推進力だったのである。

では、プロレタリア革命というものがありえた場合、それは何を推進力とするだろうか。議会がその推進力になることができるだろうか。

それを考察する前に、プロレタリア革命が起こる地理的な限界を確定する必要があるようだ。どういうことかというと、革命が国家単位で、つまり一国の内部的な現象として起こるのか、それとも国境をまたがって世界的な規模で起こるのか、ということである。革命が国家の内部で起こるなら、議会は十分それにかかわることができる。しかし国境を越えて、グローバルな規模で起こるなら、ブルジョワ革命における議会のような役割とは異なった別の推進力が必要になるかもしれない。

ブルジョワ革命は、民族国家内部の矛盾が生んだものである。それに対してプロレタリア革命は、民族国家の埒内にはとどまらないと思われる。プロレタリア革命を起こすのは、資本と労働との対立だが、資本主義の末期におけるその対立は国境のなかに閉じ込められてはいない。すでにグローバル化の段階に入った資本主義システムは、資本の国際的な展開を伴うようになっている。資本は、利潤の獲得のためには、国境とは関係なく活動する。これまでは、国境の内部で資本と労働とが向き合ったが、グローバル資本主義は、グローバルな形での資本と労働の対立をもたらす。国際的な資本が、国境とは関係なく労働者を搾取するという関係が一般化する。たとえば、日本の資本が東南アジアの労働者を搾取し、中国の資本が日本の労働者を搾取するといった具合だ。

これまでは、国内における資本と労働の対立を、国家が調停するという構図がまがりなりにもあった。いわゆる福祉国家は、資本に譲歩させて労働者を国家の枠組みにつなぎとめるための仕掛けといってよい。ところがグローバル資本主義の段階になると、グローバルな資本は、国家の意思に縛られなくなるという現象が起こる。たとえば、巨大IT産業などは、国境を無視する形で事業を展開し、本拠を置く国家のために租税を負担するということを回避するようになっている。それに対して国家のほうは、各国が連携して、資本に租税を支払わせようとする動きを見せたりもするが、あまりうまくいっていない。つまり、国家はかつてのように、資本を捕捉できておらず、したがって資本と労働の調停者としての役割も十全には果たせなくなっている。それを追認したうえで、調停者としての役割を放棄しようとする動きも出てきている。イギリスのサッチャーやアメリカのレーガン以来のいわゆる新自由主義は、調停者としての国家の役割を放棄し、資本に最大限の自由を与えようとするものであろう。

こうなってくると、資本と労働の対立は、国家の枠組みを超えたグローバルな様相を帯びる。だからその対立を、国家の枠組みの一つである議会を通じて解決することには、一定の限界があるといわねばなるまい。とはいえ、それ以外の枠組として、いまのところ有効なものは見当たらない。国連の機関は、そのような役割を期待するほど強力な権能をもっていない。やはり各国の国家機関しかそのような役割は果たせない。その中でも議会の役割は決定的だ。

ところでマルクスは、プロレタリア革命は、プロレタリア独裁を伴うと言った。プロレタリア独裁とは、労働者階級が政治権力を独占するというものだ。それはいわゆるブルジョワ民主主義とはおのずから異なった性格を帯びる。ブルジョワ革命が舞台とした議会は、社会を構成する諸階級を代表したもので、したがって諸階級がそれぞれ自分たちの代表を送り込むという性格をもっていた。それに対してプロレタリア独裁は、労働者階級以外の権力関与を認めない。労働者階級だけが権力参加を認められる。したがって統治のシステムもブルジョワ民主主義とは異なったものとなる。ブルジョワ民主主義では、統治形態は三権分立の形態をとるが、プロレタリア独裁では、マルクスのイメージでは、意思決定機関である議会と、執行機関である行政とは一体化される。

そんなわけだから、既存の国家機構でもって、プロレタリア革命を推進するということはありえないと思う。

ともあれ、マルクスが言うように、プロレタリア革命が必須だとして、それが起こるについては、資本と労働のグローバルな対立を背景としなければならぬし、その場合には、労働者階級としては、国際的な連帯が鍵になると思う。事柄がグローバルなのだから、それへの対応もグローバルなものにならねばならない道理である。

そういうことを織り込んだ上で、プロレタリア革命は各国の議会を主要な舞台とせざるをえないのではないか。このグローバルな世界で、世界一斉に労働者の武力蜂起を決行しようというのは、夢のような話である。やはり、国家を単位として資本に譲歩させながら、実質的に労働者の解放につながるような施策を追及し、その動きを国際的な連携につなげていくというのが現実的な策だろうと思う。

ソ連のボルシェビキ革命や中国の革命は、マルクスが予見したような労働者革命とは言えなかった。だから、そこにおける経験が今後のプロレタリア革命にとっての参考になるとは思えない。参考というより、教訓といったほうがよい。マルクスはパリ・コミューンの挫折から教訓を読み取ったわけだが、その教訓とは、同じ事を二度と繰り返してはならないというものだった。それと同じように、ボルシェビキ革命や毛沢東の革命は、二度と繰り返してはならないという教訓に満ちていると言えよう。



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