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新しい人類文明:マルクスの人間観


マルクスの思想の哲学的な側面は、疎外論と物象化論に代表される。疎外論は、「ヘーゲル法哲学批判」から「経済学・哲学草稿」にかけての若い頃の思想を特徴付けるもので、人間のあるべき姿を想定した上で、それからの堕落形態を疎外と見るものだった。物象化論は、資本論で確立された思想で、人間同士の社会的な関係が、物と物との関係に見えるという資本主義社会に特徴的な現象を解明したものだった。この二つの思想の間には断絶があると見るのが主流になっているようだが、小生は連続していると見たい。物象化論は疎外論の一つの変奏だと見たいのである。物象化論もまた、人間関係の本来的なあり方を想定し、それからの堕落として物象化を論じているからである。

疎外論にはヘーゲルの影響が強く働いている。ヘーゲルの弁証法の論理は、本来は生成変化を説明するもので、そこには価値的なものは含まれてはいない。存在というものは、固定したものではなく、たえず生成変化しているし、同一のものも視点によって異なって見える。そうした当たり前のことを、伝統的な論理学は無視して、存在を固定した相で見た。だがそれでは存在をトータルに捉えることはできない。存在とは、生成変化するものの全体なのである。その生成変化の論理をヘーゲルは、措定、反措定、総合という形に定式化した。措定はある面から見た存在の姿、反措定とはそれを別の面から見た姿、総合とは複数の視点を総合した姿であり、それによってはじめて存在の全体像が明らかになるとする。

これは、存在をトータルに捉えるための論理であって、そこには価値的なものはない。ところがマルクスはそこに価値的なものを挿入した。措定、反措定、総合という弁証法の論理は、措定、否定、否定の否定と言い換えられることがあるが、そこに価値の視点を挿入したのである。反措定といえば、最初の措定とは異なった措定をすることであり、総合は措定と反措定とを総合するものだと言う具合に、価値とは無関係な言い方が出来るが、否定とか反否定とかいうと、価値の視点がからまってくる。その価値の視点からは、最初に措定されたものが存在のもともとの姿であり、否定はそれからの堕落であり、否定の否定は堕落態を否定して本来の姿を、高次の段階において回復するというふうに思念される。

マルクスはそうした価値付けされた弁証法の論理を人間観に適用したわけである。それによれば、人間には人間としての本来的なあり方がある。ところが何らかの事情でその本来的なあり方からの疎外が生じる。だからその疎外を克服して人間本来の姿を回復しなければならないということになる。疎外は人間性の否定であり、それからの回復は否定の否定だという論理になる。そこで問題は、人間性の本来のあり方とは何かということになる。マルクスはそれを、人間の類的存在としてのあり方だと主張している。かなり抽象化された言い方なので、その内実はかならずしも明らかではない。マルクスが漠然と言っていることは、友愛によって結ばれた人間関係ということであり、そうした人間関係に支えられながら、個々の人間が自分の人間としての可能性を最大限発揮できるようなあり方、というようなことである。

そのような人間のあり方を可能にするものを、マルクスは共産主義に見出した。マルクスには原始共産制へのあこがれのようなものがあって、人間社会の究極の目標はその原始共産制のすばらしさを取り戻すことだと考えていた。そうした立場からすれば、原始共産制が人間社会のそもそもの姿であり、資本主義社会を含めたその後の社会システムは原始共産制の否定であり、未来の共産主義社会は否定の否定ということになる。

マルクスが原始共産制にあこがれたのは、ユダヤ人としての彼の出自によると考えられる。マルクス自身は、キリスト教に改宗したわけで、ユダヤ人コミュニティの基準によれば非ユダヤ人に分類されるのであるが、しかし生物学的な意味でのユダヤ人として生まれたという事実は消えない。ユダヤ人が古来強烈な共同体意識を持っていたことはよく知られている。それはある種の共産主義社会と言ってもよい。ユダヤ人がパレスチナにイスラエル国家を建国したとき、まっさきに始めたのはキブツの建設だったが、そのキブツというのは、まさしくミニ共産主義社会と言ってよかった。ことほどさように、ユダヤ人にはもともと共産主義と親和的な傾向が指摘できるのである。

そんなわけであるから、ユダヤ人の出自であるマルクスが共産主義にあこがれるのは、ある意味自然なことである。その共産主義のとりあえずのイメージとして、かれは原始共産主義をあげるわけだが、それが歴史上に実在したかどうかは疑問のあるところである。その疑問を棚上げしてマルクスが原始共産制にこだわるのは、そこにユダヤ人社会の理想を見たからだろう。原始共産制の最大の特徴をマルクスは女の共有に見ているが、これが原始ユダヤ人コミュミティを想定していたことは十分考えられる。キブツの最大の特徴は子どもの共有であるが、それは原始時代における女の共有の名残と言えなくもない。

もっともマルクスは、将来の共産主義社会においても女の共有が推奨されるべきだとは言っていない。言っていることは、社会と個人が分裂しておらず、個人のあり方が類的存在としての人間のあり方を理想的に体現できているような社会が共産主義社会なのだということである。

ともあれマルクスは、将来の共産主義社会に人類の新しい文明の姿を夢見たわけである。これにはマルクス自身のユートピアが反映しているのだと思う。マルクスは、資本主義システムは必然的に崩壊する運命にあり、その後には共産主義社会が実現すると予言したのであったが、その社会のイメージとしては、抽象的なことしか言えなかった。そのイメージが現実化するためには、人間性についてのマルクスの見方が、かなりな程度で的を得ていることが必要だが、人間性の見方は、論者の数ほど多様である。それに、マルクスはあるべき人間の姿をどうも不変なものとして見ているフシがある。人間とは本来善良でかつ単純な存在なのだというのがマルクスの基本的な見方である。人間を邪悪にするのは、人間の間に争いの種があるからであり、その原因は資源が有限だからだ。その有限な資源をめぐって奪い合いが生じ、それが人間を邪悪にする。だから、資源が無限大に拡大して、奪い合う必要がなくなれば、人間同士が争う理由もなくなり、すべての人間が友愛によって結ばれることができる。そんなふうに極めて楽天的にマルクスは考えていたように思われる。

しかし今の人類社会を見ると、どうもそう楽天的にはなれない。資本主義の矛盾が高まり、爆発寸前になっていることは、マルクスの言うとおりだと思うが、その先にマルクスが予言したような理想社会が来るとはなかなか思えない。そうした社会が実現する前に、愚かな人間たちが地球を亡ぼしてしまうのではないか、そうした懸念のほうに現実味を感じるのである。



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